ASSERTION TRAINING
アサーション・トレーニングにまつわる大本個人の雑感や、その他、参考としていただけそうなことを集めました。
ある朝、通勤途上のこと。電車のドアが開いて子ども達がドッと乗り込んできた。
幼稚園かな?水色のうわっぱりを着ている。
「は~い、すわってくださ~い。」と言う先生の声で次々に空いていた座席が埋まる。
ガラガラだった車内は可愛いざわめきで満たされた。
私の隣にも丸顔の男の子が座った。
座るやいなや私の顔を見上げて「こんにちは」とニコニコ(仮にAくん)。
「こんにちは。公園へ行くの?」と私。(電車は「○○公園」行き)
A「ううん、プラネタリウム」
「そう…、お弁当を持って?」(子ども達は水筒を下げ、背中にリュック)
A「うん、」
「いいわね。」
A「切符持ってるんだ。」(名札に挟んだ切符を取り出して見せてくれる)
A「ボク電車好きなんだ。」
「そう、じゃあ今日はよかったね。」
A「うん」
ところがそのとき、先生の声が車内に響く。「次の駅で降りま~す。」
A「エエ~ッ?もぉお??」と男の子。「もっと乗ってようよ。」
A「早すぎ~、…新幹線より速い。」と切符をいじりながらブツブツ。
私は思わず噴き出しそうになる「そうだね。近いからねえ」。
「はい、降りますよ~」と再び先生。
「行ってらっしゃい!」と私。
A「行ってきます!」
「オバサンも降りるからね」
A「え、どこ行くの?」
「お仕事 ☆」
A「エェ~、今からぁ?」
「そうなのぉ、(苦笑)」時刻は10時少し前。
電車のドアが開いて、私も子ども達もゾロゾロと降りた。
ちょっとほのぼのした朝だった。
無邪気で屈託のないおしゃべりは、アサーティブな表現のベースかもしれないなあと思った。
「自然に身につく」という表現があります。
たとえば母国語。赤ちゃんがお父さんやお母さんの言葉を聞いて、言葉を自然に身につけていく、などという表現に使ったりします。
このときの「自然に」とは、どういうことをいうのか考えてみました。この場合の「自然に」とは、格別な努力を要したとは思えないくらい、いつの間にか身についてしまった状態をいうのだと思います。
では、何もトレーニングしなかったということなのでしょうか。いえいえ、赤ちゃんは格別努力はしなかったかもしれないけれど、周りのおとなや子ども達とのやりとりの中で、知らず知らずのうちに、毎日数え切れないくらいたくさんのトレーニングを積んだはずです。そうしたら、いつの間にか身についてしまったということなのだと思います。
「自然に」身につけるためには、意識してはいなくても、結局はたくさんのトレーニングを繰り返しているわけですね。
同じように考えれば、コミュニケーションのトレーニングも、決して特殊な方法などではないとわかります。赤ちゃんが一つひとつ言葉を身につけていくのと同じように、トレーニングによって新しいやり方を身につけていくのですから。
自分の今までのやり方ではやりにくい部分を、より自分を表現しやすく、また周りの人とも良い関係をつくれるコミュニケーションへと変化させていく、それがコミュニケーションのトレーニングです。
とても前向きで新鮮、かつ効果的な方法です。アサーション・トレーニングはまさにその典型です。
コミュニケーションのトレーニングを、カラダを鍛えるトレーニングと同じように、身近な変化の手段として考えていただけると嬉しいなと思います。
そもそもアサーションってどういう意味なのでしょうか。
アサーション(assertion)を辞書でひくと「主張」とか「断言」と出ています。しかしアサーション・トレーニングを、「主張(断言)トレーニング」といってもあまりピンときません。そこでアサーティブ・トレーニングとかアサーション・トレーニングと英語のまま使われています。
それでも「主張トレーニング」のほうは何となく予想がつきますが、「断言トレーニング」では、いったい何だろうと思ってしまいますね。
しかし、実際にトレーニングしていると「assertion=断言」の意味するニュアンスが、「あ、これだな」と思い当たるときが間々あるのです。そして「断言」することの重要性を知って、「ナルホド、断言トレーニングか」と納得できるのです。
たとえば、こんなときです。
私たちはよく意見を求められた場合など「私は○○と考えます」というかわりに、「私は○○だと考えるのですが…」というような表現をすることがあります。語尾を濁した表現です。
それは必ずしも内容に自信がないわけではなく、むしろ、そのように言い切ることで言葉が強くなりすぎないように気遣った結果、わざと語尾をあいまいにしている、そのような場合です。もちろんそうした気遣いの必要なときもあります。
でも、いつも語尾をあいまいにして表現していると、いつのまにか、率直に自分の意見を述べることが、特別な荷の重いことになってしまう危険性もあります。
あるトレーニング参加者がこんな感想を語ってくれました。
「『○○と考えます(思います。)』と言い切ってみると、意外な発見がありました。
思いきって言いきってみたら、自分に責任が伴う気がしてちょっと恐かった。そのかわり少しだけ自分に自信が生まれた気がしました。」
断言することで見えてくるもの、断言するという体験の新鮮さなど、…アサーション(断言)・トレーニングたるゆえんです。
学生相談をしていて、気づくことの一つにこんなことがある。
自分が思っていることを口にしたら相手(友人)に嫌われるのではないか、そんな恐れから自分の言いたいことも言わず、できるだけ波風をたてないよう(今の状況を保てるよう)気遣って、結果として当たり障りのない表面的な会話だけで過ごしている学生が多いように感じている。(批判ではないので、学生の皆さん、自分を否定しないで読んでくださいね)
たとえばこんな会話をすることがある。
大本「でも、話してみないと相手が何を考えているかわからなくはない?」
学生「そうなんですけど…。もし自分の考えを言って、相手がイヤな顔をしたり、無視されたりするとイヤだから…。」
大本「仮にそういうことがあったとしたら、どう思うの?」
学生「そう…、言わなきゃよかったって思うと思います。嫌われたくないし…。」
大本「嫌われたって感じるんだ?意見が違うのと嫌われるというのは、ちょっと違う気するけど、どうかしら?その考えに賛成ではないということだけなんじゃない?」
学生「う~ん、でもなんか拒否されたというか…。」
大本「反論されたりすると自分が否定された気がするということかな?」
学生「はい、だってそうなんじゃないですか?」
大本「人の意見はそれぞれだから、意見は違っても別に君を拒否したわけじゃない、という考え方もあると思うけど、どう思う?」
学生「???どういうことですか?」
…怪訝(けげん)そうに考え込む学生。
……………
「意見=人物」ではないし、君は君であって、相手と意見が違っていてもいい。もちろん、相手も君と違う意見を持っていていい。意見や考え、感じ方の違いを認めた上で、相手を尊重しコミュニケーションをとり、つきあっていく。 そうすることによって前よりもっとお互いを理解することができるようになるし、そうすることで自分に自信をつけ、前よりも余裕を持って相手を尊重することができるようになる。
これは個人の間でも、国家や民族の間でも言えること。堅い言葉で言えば、基本的人権を認め合うということ。・・・
それにはまず自分が何を感じているか、どう思っているかを率直に相手に伝えることが必要だ。そこから一歩が始まる。
そんな話をすることもある。
若い人たちが自己表現の方法を身につけ、自信を高め、より自分を生かした生き方へと一歩近づいてくれたらと思う。もちろん年齢に関わらず、必要な人にはいつでも有効に活用していただきたいと思う。
アサーション・トレーニングはそのためのかなり有効なキッカケの一つだと考えている。
(出張の帰路、わずかな時間を利用されての、一回のみのカウンセリングに応用)
「先日は朝早くから本当にありがとうございました。おかげさまでこれからどう生徒に接していくか、ヒントがつかめたような気がします。」(A先生)
この先生の場合、ご相談の内容から、カウンセリングというより実際には コンサルテーションとしてお受けしした。その中にご要望により、アサーション・トレーニングを組み入れた形になりました。ロールプレイでその場を再現し、気づきながら改善していく方法は具体的で非常に効果の高い方法です。
出張の合間の短時間(90分)でしたが、学校での生徒さんへの対応のヒントをつかんでいただけたとしたらとても嬉しいです。(講師)
コンサルテーションの場合は、専門家同士として、問題解決に向けてどのような方法があるかを一緒に検討していきます。 この場合、先生の持っている教師としての専門性を最大限生かし、カウンセラーは援助させていただくことになります。したがって学校での指導を振り返りながら、生徒とのコミュニケーションの仕方、表現の方法について、使える資源は何かということを念頭に置きながら、お互いに専門の立場から検討していきます。
(ご相談になる方にとっては、カウンセリングでもコンサルテーションでも、どちらでもかまわないようなことですが、ご参考まで。)