MEDITATION
瞑想会が終わって会場を後にしたとき、空にはほんのりあかね雲が広がり、9月の爽やかな秋風が吹いていました。
いつも瞑想会の後に感じるこの感覚=落ち着いた静かなひとときを過ごせた余韻と、移りゆく季節の香りを同時に体感できるこの瞬間は、 かなり私の中でお気に入りのひとときです。説明するのは難しい感覚なのですが、多分、幸せってこういうことなのだろうなと思わされる瞬間です。
なぜかな?
瞑想の後は感覚がとっても無垢になるというか、とても素直にいろいろなものを受け取っているのかもしれません。赤ちゃんが何の先入観や恐れも なく周りのものごとに反応するように、ちょっとしたことで喜んだり面白がったりするのと同じような。
いつもと変わらぬ空の色、いつもと変わらず吹き渡る風、いつもと変わらぬ街のざわめき。 なのに、どこか温かく優しさに満ちているように感じられて・・・。
瞑想をすると幸せが増えるのかも・・・。
今回引いたカードは「Trust(信頼)」。絵柄はダイビングして宙に舞っている人。青い空間からほんのりピンク色に染まった明るい空へと向かってダイビング。
崖から飛び立つのは恐怖です。地面から足が離れてしまうのですから。その先に何があるかわからないし、どうなってしまうのかもわからない。 でも、自分の行きたい方向がそこにあるのなら、自分が強くそれを願うなら、思い切って飛んだ時にこそ新しい世界、新しい自分に出会える。勇気を持って「飛べ!自分を信頼して」
なんて素敵なメッセージ!
いつか自分もそうなれたら、とちょっと勇気をもらう。
「仕事場」「リビング」「寝室」あなたが仮にこの三つの部屋を持っていて、毎日この三つの部屋のどこかで過ごすとしたら、 どの部屋でどのように過ごしますか?
もしある人が仕事場でご飯を食べたり、休憩をとったり、眠るのも仕事場で寝ていたりしたら?
「そんなバカな!どうしてリビングや寝室を使わないんですか?」と私だったら尋ねたくなる気がします。 食事をしたりくつろぐには仕事場よりもリビングの方が快適だし、眠るには寝室の方がぐっすりと眠れます。それなのに仕事場で
一日中過ごしていたら、すごくもったいない話です。
でも、これを私たちの精神世界の話に置き換えると、私自身ほとんど「そんなバカな!」をやっているんだなとわかりました。 瞑想の後の雑談で、「仕事場でご飯を食べたり、寝たりしていませんか?」と尋ねられ、(まさに図星!)ギクッとしましたもの…。
ここで言う「仕事場」とはいわゆる職場のことではありません。象徴的な意味で、「常に頭を働かせている(思考している) =仕事をしている場所」と捉えればいいのかなと思います。ご飯を食べるときはご飯を食べるというそのものの時間を生きる、
眠るときはただひたすら眠るという時間を過ごす。その時その時を生きるために、この三つの部屋それぞれを生かして使う。
しっかり考え行動を起こすには仕事場を。
気持ちを解放してくつろぐにはリビングを。
自分自身の深いところと出会うには寝室を。
…そんなイメージになるでしょうか。
私が使えていないリビングや寝室は、もしかしたら不要品の物置き場か、開かずの扉状態で蜘蛛の巣だらけになっていたりして…。
何ともったいないこと。せっかくあるんだから三つの部屋をフルに使わなくっちゃ!
ということで、「仕事場で食事」は私にとってかなりインパクトのある例えになりました。
以後、食事をしつつ気づいたら問いかける言葉、
「私、仕事場で食事してない?」
この日も前回に引き続き、台風が迫る中での開催でした。それでも、夕方にはすっかりお天気も回復して、 気持ちもお天気もすがすがしい夕暮れとなりました。
恒例のタロットカードは、お遊びの要素もありますが、なかなか意味深長で「今度はどんなカード?」と ワクワクドキドキしながら体験させてもらっています。
今回は「aloneness(一人)」というカードを引きました。どんなに 離れがたい仲であっても永遠に一緒にいることはできませんし、どんなに大勢仲間がいても、いつも大勢でいることもできません。
究極のところは一人です。そのこと自体は良くも悪くもなく、淋しいことでも惨めなことでもありません。「一人」という、ただそれだけです。
<人は生まれながらにして一人である>この当たり前のことを忘れている自分がいます。 最近は特に人のつながりやコミュニケーションが大事と言われ、一人でいることよりも大勢とつながっていることに注目がいきがちです。
セレニティのコンセプトも「人と人とのつながり」ですし、どうやってつながりをつくるかに目が向いてしまいがちです。 そんな中、原点は一人であることを改めて意識してみると、「つながり」の価値もさらに深く受けとめられるように思いました。
「今日の大本さんにピッタリのカードですね」とのソハムの言葉に、一瞬、(え?そ、そうですか?それってどういうことですか?)と戸惑いつつ、「aloneness」を受けとめる自分がいました。
これから自然に体現できるようになるといいですね、と励ましの意味を込めてかなあと勝手に解釈。
さて、ワークもいろいろと体験しました。
その中の一つをご紹介しますね。
皆さん、30分間笑い続けたことはありますか?30分も笑い続けるとどうなると思いますか?・・・・私の場合、顎と腹筋が疲れて ギブアップ寸前でした。以前のワークで15分間笑ったことはありましたけれど、30分となるとかなり長く感じられます(瞑想会って
そんなこともやるのですか?と驚かれた方もいらっしゃるかもしれませんが、瞑想の前のウォーミングアップみたいなものとお考え いただければいいでしょうか)。
瞑想会で「笑うワーク」をやる度に思います。もうずっと長いこと、お腹の底からワッハッハと笑う機会がほとんどないなあと。 ウフフやアハハでなく、お腹の底から「ワアッハッハッハッハ-!!」と思いっきり笑うと、頭の中は空っぽになってくるし、
私の中でガチガチになっていた部分にゆるみが生まれる感じで、笑いのワークが終わると目の前の世界が変わって見えるくらい、 笑うことの効用を感じさせられます。もしよかったら、皆さんも試してみてください。ただし、突然笑い出して、周りから奇異の目で見られませんように…!
一見バカバカしいようでも、おおらかに伸びやかに気持ちが解放されるワークでした。
瞑想は一人でもできますが、意外なことから新鮮な自分を発見したり、忘れていた自分に出会えたりするのは、瞑想会の「会」ならではのダイナミクスであり楽しさでもあると改めて感じました。(大本)
9月の瞑想会は台風到来と重なり、開催できるかどうかも危ぶまれました。遠方から参加予定の方達は交通機関の心配もあり、 残念ながら出席を断念され、いつも以上にこぢんまりとした会になりました。
とはいえ、内容的には台風の日にふさわしい(?)充実したひとときを過ごせたように思います。
この日の私のタロットカードは「change」。チェンジというと、私など、つい何か大きな変化を期待してしまうのですが、 そればかりではないことに気づかされました。私たちの生の一瞬一瞬がchangeなのだと教えられ、なるほどと思いました。昨日に続く今日の私は同じ私ではなく、
さらに一瞬前の私でさえ今の私とは違う。常に変化し続けている自分。そのことに気づくと、自分自身を新鮮な気持ちで見ることが でき、過去の自分に縛られず、今ここに生まれた自分を生きることができるのだろうなと…。
「ハート瞑想」では、いつものことながら、頭で考えてしまってハートで感じることを忘れがちな自分のバランスの悪さを痛感しました。 しかし、なんといってもこの瞑想の真骨頂は、理屈抜きの心地よさというか、安心感というか、満たされた感覚でいられたことです。
ハート瞑想のセッション中は、自分の世界に入り込んで自分と遊んでいたような気がしています。
きっと、ハートで感じているときは、私たちは自分自身が安心感を持つことができるばかりでなく、他者に対しても穏やかな 気持ちでいられるのだろうと思いました。人と比べたり、人の目を気にしたりせず、自分のハートだけを感じていると、
平和で穏やかで、深いところからエネルギーが湧いてくる…そんな感覚を味わうことができました。 ハート瞑想、個人的にはかなり気に入りました。
瞑想会開始直後はビルのサッシを揺るがさんばかりの突風でしたが、帰る頃には風もおさまり、台風一過の澄んだ空気がとても心地よかったです。 夕映えに、思わず深呼吸。外の世界も内側の世界も、穏やかで平和そのものでした。(大本)
●久しぶりに瞑想会の感想を書きます。
まずはタロットカードにまつわるエピソードから。以前に引いたカードは「fighting」というカードで、甲冑に 身を固めた人がボクシングのようなポーズで身構えている絵柄で、そのときは「いったい私は何と闘
っているのだろう?自分自身との不毛な闘いをしている?」などと日頃の自分を振 り返ったりしました。
しかも、その同じカードを前回、前々回と二度(二ヶ月)も続けて引いたので、「今回、もし三度目の正直になったらどう 解釈したらいいの?」と、少しドキドキしながらカードを引いたところ・・・。
ホッ!「breakthrough」。<突破>
「突破したのか、それとも、その途上なのか」と自問自答しつつ、状況に対する自分の姿勢についてちょっとした ヒントをもらった気もしています。とりあえず、fighting状態からの変化はあったのかな?
(別にfightingが悪いということではないので誤解無きようお願いします。カードそのものには良いカードも悪いカードもなく、 カードの解釈はその時の自分の反映ということになります)
ということで、今回もいろいろと気づき、自分との対話を楽しむことのできた時間でした。 実はこのところ、現実の対応に追われていた感があって、全然自分自身に目を向けていないことが気になっていたので、
久々に自分にじっくり向き合えた時間は貴重で、新鮮でもありました。
<自分で自分を見てあげると安心する>と講師が言われたのは、本当にその通りだなと思いました。 親が見ているだけで、子どもが安心して過ごすことができるように、何も言わずとも、見ている人が
いるだけで安心して振る舞うことができる感覚はわかる気がします。自分のお世話に時間を使うこと の大事さに気づき、いつものことながら、改めてスタートラインに立たされた気持ちでした。
今回は、会場がいつもと別の場所だったのもあり、新しい参加者の方が二人もいらしたこともあって、 瞑想会の再スタートのような新鮮な感じがありました。「会を始めて何年ですか?」との質問に、
数えてみれば自分でもビックリ。13年は経っていました。継続は力なりといいますが、気づかないよ うでも、そして気づかないくらいゆっくりと着実に、「自分がありのままの自分でいる」ということ
を体験できてきたのかもしれません。
「ありのままの自分」をいつも思い起こさせてくれて、原点に立ち返ることができているのは、 瞑想のおかげだと思うし、その瞑想も一人ではとてもこんなに長く続かなかったと思うので、
皆さんと会としてやってこられたというのが、今の私につながっていると改めて思いました。
セレニティ瞑想会は、皆さんに助けられ、育てられた会です。これからも大事に続けられる 限り続けていきたいなあと、そんなことを思った今回の瞑想会でした。
何だか改めての決意表明みたいですが、そんな大げさなことではなく、ちょっとした振り返 りの感想として読んでくださいね。(大本)
●今まで、本などを頼りに独学で瞑想していました。
セレニティ瞑想会に参加させていただき、独学ではわからないことがクリアーになりました。
瞑想で沸き上がる毎回違う感覚に会えるのが楽しみです。(S)
●三年ぶりに参加しました。
三年前に参加したときは「今に居ること」が全く理解できず、体を動かしているときは誤魔化せているのですが、 眼をつぶってじっとしていると、混乱し不安がどっと押し寄せました。
三年の間にわたしにもいろいろあり(笑)、たくさんの本を読み、絵を描き、人と出会いました。
自分のなかで変わっていくものを感じ始めたので、それを確かめたい気持ちと、でもちっとも変わっていなかったら。。。 という少しの怖さを持ちつつ参加させてもらいました。
そして、どうだったかというと、とっても楽しかった!
自分でも驚きです。
動いていてもじっとしていても不安はなく、イメージがモクモクと沸きあがりました。
特にチャクラの瞑想では気持ちよくて宇宙まで行ってしまいました。
無事に帰って来られてほっとしています(^^)
これは不思議体験でもなんでもなくて、自分のなかにあるイメージが、 その時の自分の気分や気持ちに連動して出てきたのだと思います。
ソハム先生から
「今日の体験は今日のもの。次回違っててもそれはそれでいいんだよ」と教えてもらい、 自分の陥る穴(期待してしまう)にも気づけました。
引いたカードは「INTENSITY」 強烈、強さ、集中力。光り輝いている美しいカード。
最近、思っていることが一つの方向に走り出しているように感じるのでぴったりでした。応援してもらっているような気がしました。
ただ、遣り過ぎる傾向があるので、息切れしないように歩いたりもしたい。カードには両方の意味もあるのかな?と思って。
バランスを取ってやっていきます。
ずっと瞑想会を続けてきてくれたお陰で参加が出来て、ほんと感謝です。久しぶりの人にも会えて嬉しかった♪
それから、以前の瞑想会の感想を読み直してみたんです。
おお、素晴らしいことがたくさん書いてある!と、改めて思いました。
また参加させてください。ありがとうございました。(T)
●久しぶりに瞑想会でカードを引きました。私の引いたカードはfighting(ファイティング)。 甲冑を着た人物が拳を握って身構えている絵柄です。「おお、まさに今のわたしだ!」と思わず
心の中で叫んでしまったくらい、自分でも最近の私は戦闘モードだったような気が…。 心にわだかまる不満やザラザラとした気持ちが整理できないままにあって、それらを乗り越えようとする気持ちは、
いつしか自分に戦うという姿勢をとらせ、無意識のうちに身構えていたのかもしれません。
しかもそれは外に向かってばかりではなかったようです。「もしかしたら自分自身に対してもそうだったかもしれませんね」と言われたとき にハッとしました。もっと自分自身に対しても余裕を持った目で見てやらなければ苦しくなってしまう、と思いました。
チャクラを感じながら声を発するワークは本当に気持ちよかった。瞑想会で講師のリードがあると、 心と体の一体感を持てるのがいつものことながらすばらしいと思う。でもきっとそれは私たち誰もが本来自然に感じることができるもので、
忙しさに紛れてとか、いろいろな理由で自分では気づきにくくなっているだけなのかもしれません。
今回、初めて体験した「無音を聴く」というセッションも興味深い体験でした。笛の音の途切れた時、その「間(ま)」 (=無音)に耳を傾けることで<無>と自分の<存在>を意識しました。大学で音楽の時間に、音のない曲を聴かせられ
て不思議な体験をしたと言っていた学生さんのことを思い出しました。
「私たちは悪いことが起こると早く去ってほしいと思うが、良いこともまた永遠には続かない。良いこともまた過ぎていきます」 との言葉も、自分がハッピーだとすぐに浮かれてずっとこの状態が続いてほしいと願ってしまう私としては目を覚まされました。
そうです、現実はそうなのです。だから今日一日が大事だし、今日を・今を生きなくてはならないのですよね。
心地よい、楽しいひとときでした。
ではまた来月!(O)
-永遠の至福-
もしつかの間の幸せを望むのであれば
その道は星の数ほど存在しています。
しかし永遠の至福を探すとなると
その道は一つしかありません。
瞑想とはまさにその道です。
瞑想の中で、私達はゆっくりと自身の内側へ
ただありのままの自身の中へと入っていきます。
まるで冒険者が未知の空間に足を踏み入れるように
それでいてくつろいで楽しみながら…。
それは「永遠の至福」へと続く旅のまさに一歩ですが、
しかしその一歩ですら新鮮な驚きと安らぎに満ちています。
それは全く新しい体験となります。 (Soham)
永遠の至福とはなんと贅沢なタイトルでしょう。それは星の数ほどある幸せとは異なる…と。
昔、加山雄三の「君といつまでも」という歌の間奏に、「幸せだなあ。僕は君といる時が一番幸せなんだ」 というセリフが入っていて、ブームになったことがありました(古い例でゴメンナサイ)。ここで言う幸せは、
星の数ほどある幸せに入るのだと思います。現実はこの星の数ほどある幸せにさえ手が届かずに、もがき苦しむこともあるのが私たちの日常です。 そしてこうした幸せに喜びと安らぎを感じ、日々の営みを支えられているのもまた私たちの真実です。
永遠の至福は、この幸せとは別次元の幸せということなのでしょうか。 もしそうであるならば、「自分は不幸だ」と思っている時でさえ、永遠の至福に包まれることはできるということ?!
何だか希望の光が見えてきます。
<幸せ>の新しい体験、してみませんか?
今回、特に心に残ったこと二つ。一つは、Sohamの比喩が冴えていて、とてもリアルに実感できた次の例え話。
…瞑想は私たちが永遠の至福を味わうことのできる唯一の機会だ。でも、私たちはふだんその機会を持とうとさえしない。 それは家の中に使わない部屋を持っているようなもので、その部屋の前には荷物が幾つも置かれていて、その部屋の存在さえ忘れられている。
幸せはその中にこそあるのに、私たちはほかの場所を一生懸命に探している。 部屋の前の荷物をどかして、たまにはその部屋で過ごしてみる、例え一日5分でも。その部屋に一度も足を踏み入れることもなく
一生を終わることは、永遠の至福の体験を自分から手放していることではないだろうか?
…「使われていない部屋」がすごくリアルで、「このままではイカン!」と思った次第。
そして、二つめは終了間際の短い瞑想の前、次のようなコメントにジーンと来てしまった。
「ほんのしばらくの間、ご自分自身と一緒にいて上げてください」
自分で自分をいたわってあげよう、そんな気持ちになる。
「自分を見ていてあげることは、親に見守られて子どもが安心して遊べるように、安心して自分自身でいられること」
本当にそうだなあ、見ていてくれると嬉しいもの。
瞑想会から10日。ほんの5分だけだったり、また、それさえできない日もあるけど、少しは瞑想する習慣をと、心を新たにしているこの頃です。 せめて部屋の前に積んだ荷物をどかして、部屋に入るくらいはしてみようかなと。
-講師のつぶやき-
私達人間は3つのパートから成り立っています。
それは体と心と魂です。
体は食物によって育まれ
心は愛により育まれます。
では、魂は何によって育まれていくのでしょうか?
それは瞑想です。
魂は瞑想によって育まれていきます。
そして私達の体と心と魂が正しく育まれる時
人は人間の本当の豊かさを知ることになります。
この日は自然にゆっくりと瞑想の中へと入っていきます。
沈黙と無心の中へと、くつろぎ、溶けていきます。
何もしない時間、ご一緒に体験してみませんか? (Soham)
日常生活で私たちが「これが自分」と意識したときに感じているのは、「心」と「からだ」の二つであるように思います。 よく、「心とからだ」と表現されますが、「心とからだと魂」とは言われませんし…。そうした、日常ではほとんど忘れ
られた存在が魂です。この魂は、普段は顔を見せなくても、この世ならぬ何かを垣間見る瞬間には確実にそこに存在する、 そんな不思議な私たちの一部分であるように思います。
星空を見上げて宇宙の神秘に触れたとき、あるいは子どもの誕生の瞬間など、感動とともに私たちをこの現実世界から 一瞬解き放つ。これは私たちの中の魂によって起こっていることのように思います。そしてその瞬間は私たちがとても
豊かな自分を感じることができる瞬間でもあります。個でありながら、個を越えた存在とでもいうのでしょうか。
では、この「豊かな自分」は大きな感動とセットでないと感じることができないかというと、そんなことはなくて、 魂を育てることで普段の生活の中でも感じることができるもののようです。そのためのトレーニングが瞑想です。
瞑想によって魂を育て、普段の生活の中にある豊かな自分をたくさん見つけることができるようになればいいなあ と思っています。
皆さんにとって瞑想とは何でしょうか? 体験を分かち合えますよう、ご参加を心よりお待ちしています。
「私たちの存在そのものがすばらしいのです。何ができるとかできないとかではなく、私たち一人ひとりの存在そのものが奇跡の ようなことなのです」
この日の講師の言葉です。そして、なるほどなあと実感しました。
今回のプログラムで「呼吸」と「歩く」という動作を見直しました。 ふだん意識せずに呼吸していますが、確かにこれってよく考えてみるとすごいことですね。
ごく自然に、息を吸って、吐いて…。生まれてからずっと、片時も休まずに身体の部分部分が 動き続けているのです。
そしてまた、私たちは毎日当たり前のように歩いていますが、一歩そしてまた一歩と、床に触れる足の裏の 感触を確かめながら、ゆっくりゆっくり歩いてみると、重心の移動、各部の動きの連携など、歩くことはこ
んなにも緻密な動きを連続しておこなっていたのかと気づかされます。それも何の苦労もなく、身体が勝手 に動いてくれているのです。意識して歩こうとするとかえってぎこちなくなるくらい、複雑な動きを何の苦
もなく無意識にやっているのです。
仮にこんなロボットがいたら、世界の宝物になってしまうことでしょう。 そうしたすごい宝物の存在をすぐに忘れて、外から取り込むことばかり考えているのが、ふだんの私なのだ
なあと改めて気づかされました。一番身近な宝物のすばらしさを、もっと見直さなければもったいないとも思いました。
-講師のつぶやき-
私たちは絶えず必要以上に何かを求めていると思いませんか?
必要以上の健康
必要以上の富
必要以上の喜び
必要以上の安全
必要以上の力
必要以上の安心
必要以上の・・・・
そして「必要以上」は何であれ莫大なエネルギーを必要とし、わずかな生の瞬間をさらに奪い取ります。
本当に求めているものは何なのでしょう?
あなたにとって必要なものはなんですか?
今回は瞑想を通じてこの問いの中へ入っていきたいと思います。(Soham)
講師のSohamから上のコメントを受け取って、思い出した話があります。
ある日本人女性が、一人のアフリカ人難民の少女を引き取って育てることになりました。日本で暮らすには裸足では都合が悪いだろうと、少女に靴を買い与えました。少女は喜んで履いていましたが、しばらくすると、ゴミ箱に靴が捨てられていました。女性は驚きましたが、少女と暮らすうちに、やがてわかったことがありました。
少女は靴を粗末にしたわけでも、その靴が嫌いなわけでもなかったのです。その時必要な物だけを持つという、彼女の文化圏では当たり前のことをしただけだったのです。
女性は、少女には執着がないのだと思いました。同時に、私たちが必要だと思い所有しているのは本当に必要だからなのか、 執着によるものなのか考えさせられたとも語っていました。
この話を知ったとき、結構なカルチャーショックでした。そして今回「必要以上の〇〇」と、この話が重なりました。「必要以上の〇〇」は、実に耳の痛い言葉です。「本当に求めるもの」は何なのか?新しい年に向かって、振り返りのヒントをくれるような気がします。
瞑想会で、皆さんと豊かなひとときをご一緒できますよう、ご参加をお待ちしています。(大本)
一瞬、一瞬を大事に過ごす。その時でなければ出来ないことを最大限に味わう。 この日私が引いたカードは「celebration=祝祭」。どんなときも祝祭と言わんばかりに、嵐の中でダンスする女性達が
描かれています。 嬉しいときにお祝いするのは理解できますが、嵐の日に、雨風の中でダンスをする気には、 普通とてもなれません。普通は「お天気が良くなったら」「この問題が解決したら」「この悩みが軽くなったら」
などといろいろな理由をつけて、お祝いを先延ばしにします。「こんな状況なのに楽しんでなんかいられない」と、 状況が好転するまでの時間は耐える時間、我慢と苦痛の時間として過ごす=そんなことも多い気がします。
実際、私自身、悩みごとがあると、「これが解決したら、もう少し自分にお楽しみの時間を与えてあげよう」 とばかりに、「今、この瞬間」を楽しむことは後回しにしていることもしばしば。
ところが先日、あるフリースクールのニュースレターで、雨の日に学園祭をやって、無事に(どころか、) 大盛況で終了することが出来たとの報告を読みました。生徒や保護者が、雨の中でもいかに楽しむかを工夫して、
ふだん以上にその気持ちがお客さんに伝わり、大成功に導いたのでした。報告者の先生も、その見事な演出に、 「雨だから中止」と諦めかけた自分の予測を良い意味で裏切られたと喜んでおられました。
「celebration」ってまさにこういうことなのかなと思いました。
その時その時を楽しむ。新年のスタートはこれでいきたいです!
-講師のつぶやき-
さて質問です
あなたは今何処に居ますか?
いえいえ場所ではありません。
お聞きしたいのは「未来」なのか「過去」なのかです。
奇妙な質問です。
でもよーく心の中を覗いて見て下さい。
今あなたが感じているかもしれない
希望や不安、夢や苦悩、恐れや後悔、、。
それらは私達が今何処に居るのかを表しています。
さてあなたは今何処に居ますか?
この日は私達が何処で迷ってしまっているのかを理解し
瞑想を通じて今この瞬間の中へと寛いでいきます。
(Soham)
講師から、今回もまたまた直球のつぶやきが届きました。
このつぶやきで真っ先に思い浮かんだことを一つご紹介させてください。私事で恐縮です。
この夏、4歳になる孫のお守りで、世話と遊びに一日明け暮れました。 子どものエネルギーに対しては立ち止まったり悩んだりしている間などなく、即決即断、体力も五感もフル動員して動かざるを得ません。自然に素の自分が出て、
その結果、私自身が解放されてラクになっていました。それは、こんな意外な体験にも……。
買い物途中のゲームセンターでのこと。実はあのガチャガチャワ~ンとした騒音が私は苦手で、できるなら避けたい場所だったのですが、「1回だけね」の約束で、孫にせがまれてゲーム機の前に座ることになりました。二人でチームになり、出てくる怪獣を協力してやっつけるシューティングゲームに挑戦。最初は早い画面の展開についていくのがやっと。慣れるに従い、途中から本気モードに。
結果はゴール寸前でタイムアウトでしたが、「よし、次回は」と心密かに期待し てしまったほど熱くなってしまったのでした。自分がゲームで盛り上がるとは?!
しかも気分はスッキリ爽快!この意外で新鮮な体験から気づいたことは、すべてを使い全力で時間を過ごすということは、それが何であれ実に気持ちがよいという、当然と言えば当然なこと
でした。
「あなたは今何処に居ますか?」という真摯で高尚な問いかけに対して、あまり にささやかで日常過ぎる一コマでお恥ずかしいのですが、「つぶやき」を受け取って、私が真っ先に思い出し
たできごとでした。なぜなら、孫と過ごしたときの私は、そのまま今を生きてい た=「今、私はここにいます」と言えたからです。いつもそうでありたいもので
すが・・・はぁ。
ともあれ、皆さんはそれぞれの体験の中で、「あなたは今何処に?」の問いか けをどんなふうに受け取られたでしょうか?瞑想会で、皆さんと分かち合うこと
ができればとても嬉しく思います。ご参加を心よりお待ちしています。
(大本)
当たり前と思って見過ごしていることが、とんでもない奇跡だと気づく。今まで瞑想会に参加してきて、そんな体験を何度も味わいました。そして、今回も。
もう当たり前すぎて、なんだそんなことか、というようなことなんですが…。
「息をすること」そして「歩くこと」。こんな当たり前のこと、毎日意識せずに何万回とやっていることです。 ふだん意識せずにやっていることを敢えて意識してやってみると、自分の持っている力に気づき、同時に、何だか自分がとっても健気に思えてきます。毎日・毎時間・毎秒、片時も休まずに息をして、
黙って足を一歩一歩運んでいる。実に健気だなあと、自分が愛しくなりました。「毎日、ご苦労さん」と自分に声を掛けたくなりました。
でもまた、日常に戻って当たり前のように過ごしているのですけれど…。
たまに、当たり前のことの凄さに気づくことも悪くないなと、ついつい瞑想から遠ざかりがちな私を反省しつつ、振り返っています。 今年の目標(残り2ヶ月の時点で目標を立てるのもどうかと思うのですが)、思い立ったが吉日(何度も思い立ってはいるのですが)ということで・・・
「一日にたとえほんの数分でも座る(瞑想する)こと!」(大本)
(案内文転載)
東日本大震災から4ヶ月が経ちました。
最近、九州から関東にやってきた人が驚いたそうです。関東は九州と全然違う、と…。震災から4ヶ月経っていても震災の影響を色濃く受けていて、人々の受け止め方や空気が全然違う印象なのだそうです。
被災地との距離的な近さや、収束していない原発事故のことも関係あるかもしれませんが、いずれにしても、たまたまこの時期に関東に住んでいることは、避けようのない変化の中に身を置いているということなのだなあと改めて思いました。
この事実を一人の個人としてどう受けとめていくのか、立ち止まっても立ち止まらなくても、否応なしに問われてくる気がします。
な~んて、堅苦しく書いてしまいましたが、思考を巡らすよりも実行してしまいましょう。静かに目を閉じて座ってみると…、何かがコトリと始まるかもしれません。
-講師のつぶやき-
私達が知っているいわゆる豊かさというものはいずれ失われる運命にあります。 それは物質的であれ精神的であれ同じことです。
今年私たちは皆、全ては永遠ではないということの一瞥を体験しました。
そして誰もがこの出来事を機に、何であれ自分自身を見つめ直したことと思います。
今回の瞑想会は今私達個々が直面している様々な体験の扉から、より深い個々の中心へと、瞑想の階段を降りていきたいと思っています。
(Soham)
瞑想会の後、お気に入りのミュージシャンのライブへ。感想をいただきました。↓
<瞑想のライブへの影響について>
さて、ダンス瞑想後のライブにおける体への影響についてですが、
楽しさ倍増!です〓
体がほぐされたことを実感できました。
半年ぶりのライブだと、体の切れ悪く、イマイチ乗れなかったと大抵は後悔するのですが、なんと!
新曲にも馴染みの曲のように体が乗りまくってしまい、ビックリです!
どの新曲も私好みだったせいもあるのでしょうが、驚きました。
久しぶりに跳ねて拳も挙げてきました〓。
ライブ後の寂しさもないのですよね。完全燃焼したのでしょう。
恐るべしクンダリーニ瞑想。
(M)
6月はお申し込みが少なく、残念ながら開催することができませんでした。下記はご案内の内容を替わりに掲載しています。ぜひ次回は、皆さんと 良い時間を共有できたらと思います。
「3月11日」の出来事はとても大きな衝撃でした。この日を境に世界は大きく変わってしまいました。 個人的にも、気持ちや体調の変化、ものの見方や考え方、人や社会とのつながりなど、さまざまな影響を受けているような気がします。 しかし同時に、こんな時でも変わらない「いつもの私」がいることも、どこかで感じています。 変化していく部分と、いつもと変わらない部分。 「いつもの私」はこの変化をどのように受けとめているのでしょうか。 このような時だからこそ「いつもの私」のありのままの姿が、よりはっきりと見えてくるのかもしれません。 変化の時にあって、そんな自分に向き合うひとときを過ごしてみませんか?
-講師のつぶやき-
「心の平安の中で」
めまぐるしく自然が社会が人が動く今
あらゆることが不透明で不確かに思えてきます。
この混沌とした時代の中で
私たちはいったい何を学ぶこととなるのでしょう?
次回はこの激動の嵐の中
瞑想の扉を開けることで、心の平安を取り戻していきたいと思います。
(Soham)
今回の瞑想会は、3月11日の東日本大震災から約一ヶ月半経っての開催でした。会場を予約したのが1月末でした。あの頃は、今思えば、 とてものどかな世界だったと思えるほど、今は別世界です。といっても、私の周囲は目に見える変化は特にないので、何も変化がないと言えばそうも言える不思議な感じがしています。
この日の参加者は私を含めて3名でしたが、「このようなときに開催できること自体奇跡です」と言われ、「確かにそうだなあと」納得しましたし、開催できることに感謝しました。
この日はやはり震災のことが誰も意識のどこかにあった気がします。それをも無理なく共有できたのはとてもありがたかったです。
「私は誰?」の問いを自分の中で繰り返すほどに、だんだん思考できない状態になって「私はただそこにいるだけ」というような感覚になることができたのは、ふだんあまり経験できない心地よさでした。
ウォーミングアップのタロットカードで私が引き当てたのは、「guidance」(ガイダンス=案内)でした。この混沌とした世界にあって(というかいつものことですが)、自分が方向性を探していたので、まさに気持ちにピッタリのカードでした。そしてさらに気づいたことは、私が案内役を欲していることは事実だけれど、ひょっとしたら案内役は外にではなく、自分自身の中にあるのかもしれないとも思いました。
方向を示すものはすでにあるにもかかわらず、自分がそれに気づいていないか、気づこうとしていないだけなのかもしれないと…。
この日は、いつも以上に内面に集中するのが難しい気がしました。そのくらい震災の余波は私にとって大きいことを、改めて気づけたこともよかったです。(大本)
今回の瞑想会のテーマは「三つのセンター」。私たちの日頃の言葉や行動は、「意思(頭)」「心(胸)」 「腹(おへその下あたり)」の三つのセンターから発せられているという見方によっています。私たちはふだん、自分の行動のエネルギーがどこから出ているかなど、ほとんど意識しないで生活していますが、実際にはこの三つのセンターのどのエネルギーを使うかによって、私たちの行動は微妙に変化しているもののようです。
たとえば、「頭」「胸」、「おへその下あたり」、この三つを意識しながら行動してみる(ex.ある言葉を発してみる)と、 それぞれの言葉の響きや強弱、込められた気持ちの違いなど微妙な変化に気づくことができます。人間って、こんな微妙な変化をちゃんとキャッチできるものなのだなあと感心してしまいました。
頭に手を置くと頭に意識が行き、頭で考え始めて、頭で思考した言葉が出てきます。いっぽう胸に手を当てると、フッと力が抜けて、 自然な気持ちで言葉が出てくる気がしました。「<心から>そう思う」とか、「<心から>お祈りします」という表現がありますが、
単なる言葉のアヤではなく、「心から」というのは正にこのことだと思いました。そして、お腹に手を当てた場合は、周りの人の視線とか、周りからどう思われるかといったことがほとんど気にならなくなり、自分の内側に関心が向き、どんどん内側に入っていく感じなのがわかりました。
となれば、昼間に活動するときは、頭で思考して行動し、てきぱき仕事をする。夜になってプライベートな時間を過ごすときは、 十分に感情交流できる、心からの言葉を届けるように人と言葉を交わす。そして、一人で過ごす時間は、お腹に手を当てたときのように、静かに自分の内面に向き合う。…そんなふうに「仕事」「プライベート」「一人の時間」、それぞれを三つのセンターを活かして過ごせたら、活力に溢れ、なおかつ自然でラクな生き方ができるのかもしれません。
現実の自分の生活を振り返ると、結構ちぐはぐだなあって思います。仕事の延長の、あれこれ考え続けた頭で家族としゃべっていたりします。そんな時は会話がうまくかみ合わなかったりしているなと…。
そういえば、韓流スターのヨン様が「家族の皆さん…」と呼びかけて、ファンに感謝の言葉を届けるとき、よく胸に手を当てたポーズをとっていますが、<心>を意識してのことでしょうか…。
皆さんも、試しに胸に手を当てて、その手のひらの内側の自分を意識しながら、言葉を発してみてください。同じ言葉でも、少し意識が変わりませんか?心の深いところから自然に気持ちがわき出てくる気がしませんか?(O)
4月のテーマは「第三の目」でした。テーマを知ったとき、第三の目とは何のことか、まずそれが気になっていました。 「自分の内側に目を向けるときの目のことでは?」と、勝手に解釈して、4月のご案内文に書いてしまったので、「もし違っていたらどうしよう」と、内心ドキドキでした。でも、大体そのような解釈で大丈夫だったようで、ホッとしました。
第三の目とは<自分を見る、ただ眺めている目>のことだそうです。
面白かったのは、<数分間光源をジッと眺めた後、目をつむる>というワークをやったときです。私の場合(人によって違うのかもわかりませんが)、目をつむると網膜に光の残像が残り、真っ暗な中に、縦長の丸い光(目を縦にしたような光り輝く物体?)が輝き続けて見えたことです。まるで、理科の実験か、万華鏡をクルクルと回して試す子どもみたいな心境でした(途中で、瞑想の最中だと気づいて自重しましたが、…面白かったです)。
で、このワークの意味について考えてみました。あの光り輝く目を一度体験したことで、「第三の目」がよりリアルにイメージできるようになるという効果があるのかもしれません。
自分の内側を見るといっても、何もイメージするものがないとやりにくいものですが、 「第三の目を使えばいい」と自分に備わった機能として思い出すことができれば、より瞑想をやりやすくなるように思いました。
それと、瞑想していていつも感じることですが、自分の身体機能に意識が向くようになることも瞑想の大事な部分だと思いました。 ふだん、頭でっかちになりがちな現代人には特に、自分の身体の働きや感覚に気づくことは、それだけでも全体性を取り戻すきっかけになる気がします。
さて、そんなこんなで今回も新鮮な体験でしたが、タロットカードもいつも以上に「新鮮」でした。なんと真っ黒なカードだったのは驚きでした。 何も書いていない真っ黒なんです。真っ黒は闇を表しているのでしょうか。最初ギョッとして、正直なところ、「変なカードを引いちゃったなあ」という感じだったのです。でも、「闇もまた受け入れればいい。暗いとか闇というと、それだけで不安に思いがちだが、
真っ暗なことそれ自体が何も悪いわけでもなんでもない」と言われ、胸につかえたこわばったものが、またポロンと一つ落ちた感じがしました。(O)
始める前の話し合いでは、人によって、また年齢によって、死に対しての思いが大分違うと思いました。
< 自由に動き、ストップの合図で動きを止めるワークの時に感じたこと >
自由な動きを急に止められ、なんで今この時、生がなくなるんだと思いました。死ぬとはこういうことかなーとちょっとわかった気がします。体が止まったまま意識が体から抜けていき、意識を体にもどすのが大儀でした。体って人間の魂か何かが抜けると動かないものなんだなあ、という複雑な気分。
あの瞑想会から死が少し日常的な感覚になり、死と生の対立が減り、また、死のことを身近に感じるようになりました。また少し精神的に落ち着き、生命に対しても愛しさを感じるようになりました。死無くして生は無いし、死ぬ時に後悔してもしなくてもどっちでも良いかななんて。
何か悟ったようなことを書きました。やっぱり死んでみないと分かりませんよね。でも死ぬなんて自分には関係ないと今も本当は思っています。でも生きている人より死んでいる人のほうが圧倒的に多い。世の中は生きている人ばかりのものではない。そんなこともふと思ったりします。
今回のテーマは「 アート オブ ダイング」(死のアート)でした。日頃、「死」そのものについてゆっくり考えることはほとんどないので、とても貴重な機会になったように思います。
プログラムは、死を巡ってのそれぞれの思いや身近なエピソードなどを分かち合うところからスタートしました。 参加のみなさんの語るできごとや気持ちは、そのどれもがとても示唆に富んだメッセージで、この日は午後の間ずっと、生や死について考え、死に正面から向き合うひとときとなりました。
なかでも、ある参加者が話されたアクシデントの体験は、まさにこの日のテーマ「死」について考えさせられるできごとでした。私たちの生は本当に死と隣り合わせなのだなあと、
「生きていること=奇跡」をリアルに感じました。九死に一生を得るような体験の後では、ふだん当たり前の光景がとても新鮮で、電車に乗っても、乗客の一人ひとりについて「この人も、この人も…、みんなに奇跡が起きている」と思わずにいられなかったとの話は、とても胸に響きました。
また、この日初めて体験した「死の疑似体験瞑想(?)」は、興味深い、新鮮な体験でした(とはいうものの、私は気持ちよくなってついウトウトしてしまい、
プロセスがとぎれとぎれになってしまったので、次回は絶対に寝ないでフルに体験するぞ!と、今から気合いが入っています)。
でも、もしかしたら、死は本来、眠りにつくのと同様のやすらぎなのかもしれない…、そんなふうにも思えました。
半日のプロセスを通じて、死に真向かいになることが、ほんの少しですが苦手でなくなったような気がします。
この日、私が引いたカードは「playfulness」。「どんなときも楽しみなさい」というメッセージだそうです。「どんなときも」…むずかしい~~!並大抵のことじゃないですね。それでも、ちょっとずつそんな心境に近づけるような、そんな歳の取り方ができたらという願望くらいは持ってもいいかな?そんな気持ちになりました。(大本)
今回のプログラムの中で、私にとって新鮮だったのは、目をつむって、足の裏を感じながら歩くというワーク。ふだん、歩くということはあまりにも当たり前なことで、振り返ってみるなどということは、まずない。だから、ゆっくり足の裏を意識しながら歩いてみると、歩くことそのものがまず新鮮だった。素足に畳の感触が気持ちよかった(家で畳の上を歩いているのに、気づいていなかった)。
歩く速度は各自の自由でよいということだったので、私は地面を感じたいと思い、意識的にゆっくりゆっくり歩いてみた。ひとあし、ひとあし、かかと、指先、足の裏全体で、畳の感触を感じながら進む。地面(この場合は畳)を感じて、ゆっくり歩いてみると、私は地球に立っていると感じた。ただ歩いているだけなのに、哲学的な思考にも結びつきそうなくらいの意識変化!歩き、立っている自分を感じると、地球の上に乗っている自分を思う。地球が回っている、人間や動物、あらゆる生物が地球に乗っていることなどなど、地球の外から眺めている自分がいる。(ここまでは当日思ったこと。ここからは、これを書いていて思ったこと)足の裏の感じを確かめながら歩いていたとき感じたことは、赤ちゃんが初めて歩いたときの感動に近いかもしれない。赤ちゃんが初めて歩いたときの感動を言葉にできたらどんなかな?「!」が5個も6個も着くほどの感動だったのでは?「歩けたー!!!!!」と。子どもの頃に、そんな感動の瞬間を、すべての人が必ず一度は体験していることなんだなあと気づいて、その事実にもまた感動してしまう。私たちの日常は、何事もないように見えて、もしかしたら数え切れないくらい多くの感動に満ち満ちているものなのかもしれない。ふと、思いはそんなところにまで飛んでしまった。と、ここまで書いて気づいたのは、私のこうした気づきは「ただ見ている」瞑想の本質からはかけ離れているんじゃないかということ。「ただ見ている、観照する」のではなく、想像の翼がグングン広がってしまって、遠くまで行ってからハタと気づいてあわてて「観照」の位置にもどってくる。こんなことを繰り返していたのが瞑想会の私だったような気が…。今回のテーマ「気づいている・観照している」なのに…。
…瞑想の道のりは遠い。はぁ~。(O)
(2009/10/21追記)
<後日談>
上の感想を書いた後、(筆者O=大本は)何だか今ひとつスッキリしなかったのです。そこで、Soham(瞑想会のファシリテーター)にメールで質問しました。「瞑想会の感想を書いていたはずなのに、何だか途中でそうではなくなってしまったような妙な感じなのはなぜでしょうか?」といった主旨です。
それについて、Sohamから返信が届きました。「あくまでも一つの解釈なので…」と控えめなアドバイスでしたが、それどころか私にはまさにドンピシャリな回答でした。これを読んで私自身はとてもスッキリしましたし、日頃の生活や自分を振り返る良いヒントをもらったような気もしました。もしかしたら同じような疑問を持たれた方もいらっしゃるかもしれないので、掲載して皆さんと分かち合いたいと思います
~Sohamからの返信~
「一番感じたのは、大本さんが瞑想の何かを漠然とでも感じ取っているということです。 ただ文章に直したときにその境界線(瞑想と非瞑想)が見えなくなってしまったのではないでしょうか?
今回の個人的な感想を言えば、
当日の感想文の三分の一は瞑想に関してであり
残りの三分の二はそこから始まる思考の連鎖です。
足の裏の感触、体重移動の変化、動きに気づく意識、
これらはその瞬間の出来事です。
しかしそこから始まる物語の展開は思考のプログラムとなります。
どのように美しい物語であっても思考は思考であり、
その瞬間、歩行に関する気づきは失われてしまいます。
このことが私達の日常の中で連続的に起きています。
気づきは今この瞬間に属し、思考は過去か未来に属しています。
瞑想は今この瞬間に属しています。」
返信を読んで、モヤモヤしていた部分がとてもスッキリしました。瞬間瞬間に起こっていることよりも、そこから派生する思考のほうに私が引っ張られて しまっていたという落とし穴の仕組みが、ほんの少しですが、わかった気が しました。(O)
●瞑想というと、どうも心の中だけの作用のように思ってしまう節があります。でも、瞑想会に参加して毎回思うのは、心とからだは一つながりなんだなあということ。
心が解放されていくと自然にからだの緊張もゆるんでくるし、反対に気持ちの緊張がなかなかとれなくても、からだを動かしているうちに、気づくといつの間にか気持ちもほぐれている。そんな経験を毎回しています。
今回のいろいろなワークも心とからだ両方に働きかけ、一つのワークが終わるごとに、少しずつ深い瞑想へと入っていけるような感じがしていました。
「声を出す」「からだを振動させる」「笑う」など、バラエティに富んだワーク一つひとつをこなすうちに、ふだん使っていない心とからだのあちこちが、快いトンカチでトントントンとほぐされていくよう…(ヘンなたとえでスミマセン)。
「笑うワーク」は、クスクスとか、ウフフといった笑いではなく、それこそ豪快に「ゥワッハッハッハー」と笑います。お腹の底から声を出さないと、そういう笑いはできないし、笑い続けることもできません(ある参加者いわく「しんどいエクササイズ」だったそうです)。確かにけっこうハードでした。
皆さんは、15分間笑い続けたことはありますか?腹筋も使うし、表情筋も使うし、そのうち転げ回って笑ったりすれば、それこそけっこうな全身運動です。美容と健康にもよいですよ(なんてこと、瞑想の最中には考えるどころじゃありませんでしたけど)。
ひとつ気づいて面白かったのは、笑っているのに、だんだん泣いているのか笑っているのかわからなくなってしまったこと。これは不思議な感覚でした。泣くのと笑うのは感情のレベルで紙一重なんだそうです。
それにしてもこんなに笑ったのは久しぶり。子どもの頃は、笑いすぎてホッペが痛くなるなんてこともしょっちゅうあったのに…。最近の笑いを忘れた生活に、ちょっぴりショック!同時に、日が暮れるまで遊び回った子どもの頃を思い出してしまいました。
最後は自分の呼吸に注目する瞑想で終了。終わって外に出たとき見上げた空が、いちだんと広々感じられた、そんな一日でした。(O)
●さわやかな汗をかいて気持ち良く、瞑想の誤解もとけました。 人生最後のダンスを意識した瞑想で、自分のためなら、エネルギッシュになれること、呼吸を見る瞑想では自分を知る大切さを知りました。 考えずに感じて踏み出せ!と背中を押された瞑想会でした。(Y)
●久しぶりの瞑想の会。本心から行きたかったのでしょうか? その日は4ヵ月ぶりで帰ってきた娘が四国に帰る日で、羽田に夫婦で見送りに行きたいと思っていました。それがちょうど良い時間に終わり浜松町で会って妻と見送りできました。最近本心からやりたくないことは何かの理由で自ずと自分から避けて行くのを感じます。こういうことを気付くのも瞑想会に行ったからかもしれません。
今回は会が始まってカードを引きながら、今のそれぞれ各自の話が長くなりました。ただ自分のままに少しでも居れたかもしれません。 エクササイズで気のむくまま踊ってくださいといわれましたが、何かわざとらしい自分に嫌になったりして。ただ瞑想会は生活に流されている中での引っ掛かりになったのかも知れません。
頂いた本のコピーを読んで男は目標が無いとダメで幻想の中で、女はその時その時状況で感じ生きている。と私は感じました。薔薇を見た時、過去を持ち出して、どこどこの話は良かったとか名前は何だったっけばかりで、目の前にある花の香りとか色とかみずみずしさとか、しおれていて悲しいとか、ほとんど見ていないと、これから心していかなければと思います。(M)
●この日私がひいたカードは「Laziness」怠惰?怠け?絵柄も「なんでこれ?」と思ったし…。 でも、いろいろと思い当たる節もある。カードの意味は、得たものに安住しない(怠けない)で、自分に必要なことにちゃんと向き合いなさいということなのかなと思った。
ちょっと一息のつもりがすぐに怠けて、見たくないものは見ない、になりがちだから私は。そうなると「逃げ」になるから、イヤなことがますますイヤになる。しゃんとして向き合えば、違った見方でとりくめるのかもしれない。
「逃げ」ではなく、自分から向き合うと、元気も勇気も湧いてくるし、新しいやり方も見つかる…なんて殊勝にも思えたのは、日頃のスピードから速度を落として、ゆったりと時間を過ごすことができたせいかもしれないと、この場に感謝した次第。
それと面白かったのは、メディテーションと禅の瞑想の違い、東洋と西洋の発想の違いなのでしょうか。 いずれにしても、シャワーを浴びたようなさわやかさ+ゆったりのんびり+ちょっと刺激的な新しい視点の見つかること、それが瞑想会の魅力です。(O)
●セレニティ日記(11/18)に大本個人の感想を書きました。
「自分にはあれが足りない、これが足りない、もっとがんばらなくては」と、私たちは常に何かに追い立てられるように、がんばらなきゃって思ってしまう。
でも、何もしなくても心臓は動き、血液は流れ、身体のメカニズムはちゃんと働いてくれている。考えてみればそのこと自体すでに奇蹟のように素晴らしいことなんだなあって、今回も気づかされました(毎回気づかされて毎回忘れているのですが…苦笑)。
「人間の存在そのものがすでに満たされている。どんなものもつけ加える必要がない。それに気づくのは至福の時です。でも残念なことに、現代では多くの人がこの至福を体験しないまま一生を終えています。」
ギク?!身に覚えのある私には響いた言葉でした。
たくさんいろんなことに気づくことができ、おまけに心も体もゆるゆるになれた心地よい時間でした。
●先日の 瞑想会は 感激でした。悩み、苦しみ、喜び、 全部 自分なんですよね!普段私達は苦のほうを 強く感じてしまって、自分のまわりにある喜びを感じる力が弱くなっているようです!瞑想の帰り、駅までのわず10分ぐらいでしたが、5人で「 出会いって素晴らしいね♪」なんて 話し合いながら帰りました○○さんも なにか 一皮むけたみたいです♪ 楽になったと いってました♪ (Y)
●今回は遠方から参加された方もいらして、いつもとは違った雰囲気で新鮮でした。
(瞑想会の中でもお話しさせていただきましたが)
以前は音楽に乗って体を動かすこと・ダンスすることに対して、非常に抵抗を感じていました。
しかし、今回は「ダンスする」=「音というエネルギーに体をまかせる」というとらえ方をしたことで、はじめて無理なく楽しく体を動かすことができました。
また、瞑想の際、以前は「非日常的な何かを体験するぞ!」と意気込んでやっていましたが、力が入ったり・逆に眠くなったりであまりうまくいきませんでした。
今回はソハムのガイドに沿って、
「何もしないでいるということを楽しむ」という意識でやってみました。
それがよかったのか、余計な力も抜けて、とても充実した時間を味わえました。
また、自分にとって大事な気づきもいくつか浮かんできました。
毎回参加していますが。その度に新しい発見があります。
また次回を楽しみにしています。(M)
●ここの瞑想会では毎回タロットカードを自分のために一枚選ぶのですが、なかなか当たってました。私が選んだのは「thburden」というカード。こうでなければならないと思う心と本当はこうでありたいと思う心は同じ自分から生まれたもので、今また自分の内を見る必要があるというご忠告でした。
確かに何かのイベントの活動資金を得るためにアルバイトに精を出したり、四国に行く前に人にあっておきたいなど、本当は休みたいんだけれど、そうもいかないところがあったので、もうちょっと自分の身体をいたわろうということを再認識させられた良い機会でしたわ。
ここに集まる方々もとても素敵な人たちで、以前の空(カラ)元気だった自分が本当の元気になってきている兆しを感じさせてもらえました。だって、とても居心地が良かったんですもの。(T)
●「自分で自分を見ていてあげると、とても安心できる」この言葉が印象に残りました。
お母さんが子どもを見ていてあげると、子どもはその母親の視線を感じながら安心して遊んでいられるように、自分で自分を見ていることは、自分に安心感・安定感を与える。なるほど、瞑想することで落ち着くのは自分を見ているからなんですね。
この日も、いつものようにいろんな雑念が頭に浮かんでは消えていったのですが、これらの雑念に振り回されず、そのまま見ていることが大事なんだなあと思いました。
それは母親が子を見守る視線のように、自分に降り注がれるものだとすれば、瞑想は難しいものではなく、優しい行為のように感じられて、瞑想が身近なものに思われました。(O)
●2ヶ月に一度の定期便。静かな自分の時間を持つことができました。
この世とあの世の狭間に迫りたく努力しましたが、入り口までで中は覗くことできませんでした。幸せにどっぷり漬かれる自分をめざします。(M)
●ホンネとタテマエ。今回の瞑想会で出会った私のテーマだ。いつものように最初にお楽しみのカードをひく。「politics」このカードの意味がホンネとタテマエ。カードにはトグロを巻いたヘビを絡ませた人物が、仮面をはずしてニンマリ不敵な笑いを浮かべている。仮面には作り笑顔が描かれている。
誰の中にも潜む表の顔と裏の顔。そこから一歩進めて、表と裏の使い分けでなく、ありのままの自分とは何なのか、自分は何を求めているのか。見ないですませている自分の内側に目を向けさせられる。
いつも瞑想会に参加するたびに思う。前のめりに歩いている自分がいて「ちょっと待った。そうじゃないんじゃない?ちょっと立ち止まって自分自身の内側の声を聞いてごらんよ。」と穏やかに声をかけられたような気持ちになる。
終了後のティータイムで参加者のSさんが、最近、家の廻りのゴミを拾っている話をされた。「なぜ始めたの?」
「別に…、道を歩いていて最近何だか汚くなっていたんで。区の方ですかとか聞かれることもありましたね。でも2,3日すると、もうゴミだらけですけど。」
気負いもなく淡々と、強く自己主張するタイプでないSさんが、地域で黙々とゴミ拾いをしている。Sさんの強さ、大きさを感じて感動してしまった。
ビジネスマンのMさんからもいろいろな気づきをもらう。
昔テレビマンガの主題歌に「いい~な、いい~な、人間っていいな♪」」というのがあったけど、毎回参加するたび、帰り道そんなことを思って心があったかくなる。 (R)
●9月に初めて参加した瞑想会ですが、正直まだよくわかりません。
感情に振り回されず、静かに状況を理解することができるような、心のあり方になたらと思い参加しました。
初めての参加でしたが、そして普段は決してやらないような踊りでしたが、何の抵もなくできてしまいました。
今後どうなっていくのかが楽しみです。(K)
●瞑想会の後は体調が良くなる?そんなことあるだろうか。
あると思う。ふだん頭けっこう、無い知恵を絞っているので使っている(つもり)と思うのだけど、身体を使っ動いていないし、動いていても使うところは限られているしで、頭も身体も全体を使っいるとは言い難い。
それが、瞑想すると、全部を使っていると言うか、全体が一つながりになる。それがっと体調を良くするのではないかと自分では思っている。
自分が一つながりになるだけでなくて、一人ひとりの個人が集まって、一つの生命になるような、そんな感覚も持つことができる。自分が全体の一部分であると思うと、
意識が広がって、無限の宇宙に生きている気になる。そんなことを、日常の中でふ垣間見させてくれる瞑想会のひとときは、ダイナミックで「面白い」。
感心したことが一つ。それは会場の階下では工事の騒音がひどかったので、どうなことかと思ったのだけれど、それでも瞑想会にはほとんど影響がなかったこと。
どこでも瞑想って出来るんですね。(O)
●2ヶ月に一度の埼玉の静かな和室での瞑想会。
今回は何をするのかなと、興味とちょっとした不安を抱えながらいつも出かけます。
まずカード(何ていいましたっけタロット?)を引き、今のメッセージを受け取ります。
今回は印刷の無い真黒なカード。自分にとってちょっと不満に感じます。
私事ですが、昨日は自分の誕生日で後ちょうど一年で定年になり、将来どうしようとずーと考えつづけています。
勤めないとお金も入らないしとか諸々。そこを突かれたようで、一年先のことばかり見ていて今がないとのこと。
今の与えられた時を味わうのがまず先なのだ。そしていくら来ていない一年後を考ても生活に変化は起こせない。
分かっていたことながら、心からそうだなーと、今もそう感じて生活しています。
会社に来ると朝から帰ることを楽しみにしたり、一週間も先の行事の心配をしたりるのは止めようという気になりました。将来のことばかり気にするのは暇なんだきっと。
瞑想で感じた静かな心、感じ、雰囲気を思い出しながら、与えられるメッセージを受取れるようになれれば良いだけだと思っています。(I)
●笑うこと、しゃべること。
当たり前だと思っているそんなことを、思いっきりやってみることで自分がなんだかのびのびしていく。昨日の瞑想会ではそんなことを感じた。
思い切り笑ったり、まったくとぎれることなく何分もしゃべり続けたり、などと言うことふだんまずやる機会がない。笑うにしても、ワッハッハッハ…とお腹を抱えて笑いけることなど、まずほとんどない。
「一日に何分くらい笑っていますか」と聞かれて、改めて考えてみると、ほんのわずな時間だと気づいた。それもクスクスだったり、ウフフだったりで、大声でワッハッハ笑うことが少ないことに気づいた。子どもの頃は笑いすぎてお腹が痛くなったこともったのに。大人になって笑わなくなっている自分に気づいてちょっとショック。
10分間も笑い続けると、しまいには自分が泣いているのか笑っているのかわからななったのは面白い体験だった。泣くも笑うも根っこは一つと聞いて納得できた。
それから、「ひたすらしゃべる」体験も面白かった。
最初はちょっと抵抗があったけれど、やってみると普段できない経験で刺激的だった。
知っている言語以外でしゃべるというのがルール。
また、ひたすらしゃべるというのは結構運動になるものだ。
そんなこんなで汗をかき、普段眠っている感覚をフル稼働して、その後静かに座る間はとても貴重なひとときだった。
タロットカードもそれぞれのテーマにピッタリで興味津々。そして、またもや新発見!
●日曜日は急遽瞑想会に参加した。
1週間近く瞑想から遠ざかっていたのでとてもいいタイミングだったなと改めて思う!
この瞑想会では毎回(前回はなくて残念だったんだけど)この瞬間の自分のためにタロットカードを一枚引く。前々回もそうだったが人生のヒントとなっている。今回選んだカードはrebirth!
タロットカードをよく見ると、下部に羊の身体を、真ん中にライオンの身体を、上部に子供が1つとなった絵が描かれている。これを元に、現在の自分の状況と照らし合わせて考えてみる。
・自分の将来像が不鮮明になっている。
・3月からアルバイトを再開し、修士論文との葛藤の生活とのギャップに違和感がある。
このカードが私に伝えるもの。それは従順である羊だけでなく、時に周囲に反発をするライオンの堂々とした感じを備えた子供。つまり、無垢な子供ではなく、両方を備えた自分を形成していくことが求められている☆自分がやりたいと感じたことに意識を向けることが必要のようだ。(M)
●久々の瞑想会。プログラムに組み込まれたダンスがとても心地よかった。ダンスと言っても決まった型はなく、自分の思うままに体を動かす。そうこうするうちに、あれやこれやの思考も飛んでいく。一つになっていく感じだ。40分間ただひたすら踊る。
うっすら汗をかいて、そして静かに座る。
何というか表現が難しいが、とってもさわやかな心地がした。
お楽しみのタロットカードも、とても興味深いメッセージだった。ほかの人が引いたカードからもいろいろな示唆をもらえたし…。
とはいえ、私の引いたカードが今までに見たこともない一見おどろおどろしいカードだったので正直ビックリした。そうか、これが現状なのかと。それはそれで受け入れる。
そしたら2枚目のカードがこれとは正反対のカードが出て、またまたビックリ。
いったい何が起こっているんだろう。
2ヶ月にわずか数時間だけれど、やっぱりこういう時間は貴重だとつくづく思った。
(O)
●私にとってセレニティーの瞑想は二ヶ月に一度の普段とは違う半日。
いつもは私とあなた、自分と物の区別が強く対立していますが、その半日はその境界線が薄くなっているのを感じます。
確かに始める時は今回はまた何をやるのだろうかという、ちょっとした恐れと、何か感じられるかという期待でなんとなく始まります。
終わって十日過ぎてみて、今思うことは…。
いつもセッションの前にカードを引きますが、この日のカードはサーカスの綱渡りのカードでした。今変換の時なのだが思い切って全身で乗り移らないといけないとのメッセージを改めて受け取りました。他の人のカードでの話も自分に参考になりました。
その後のエクササイズで自分に正直になって感じるまま動き回りましたが、体の重い塊が落ちる感じがし気持ち良く、ちょっと疲れたあとの瞑想はいつもより静かな時間を感じました。
毎日の忙しさの中で、仕事に振り回された時、あの時の感じを感じるよう、瞑想会の場所に戻って落ち着くようにと思っております。(I)
●瞑想会、大変お世話になりました。
とっても充実したひと時を戴き、皆様に感謝してます。
参加されていたメンバーがとってもいい方々ばかり。初対面に思えないって、どういうとでしょうかしら。うれしいことでした。
それでも初めての参加ということもあり、わくわくしながらも、ドキドキ部分も大いに抱て伺った次第でした。
春の陽気に誘われて・・とでも言いたいほどにぽかぽかの○駅、西口に降り立ち、会場のビルへ。 エレベーターには乗らず、階段をトントントンと気持ちよく3階へ。
案内板に瞑想会の表示を見つけて「ホッ~!」。どこに行くにも迷子になる私が直行できた!!これはすごいこと!
会場が和室・・・落ち着いた雰囲気の入り口にまた 「ホッ~!」。
扉を開けて靴を脱ぎかけていたら「さあさあ、お入りください!」となんとも柔和な落ち着きのある雰囲気の男性がお声をかけてくださり、またしても「ホッ~!」。「この方が瞑想会の導師?(というのか案内役というのかわからないけど)」と思いながらなぜか安堵・・・。
何か動作をする前に、例えばCDを聞かせてくださるにしても、アロマオイルをつけて下さるにしても、わかりやすく説明してくださる。
何事につけ初めてのことは心配が伴いがちだけれど、全くそれがない。
おう、すべて言われるがままについていけば良いのねってな具合の心境に。
話しているその様からさえ安堵を覚えるのは・・うれしい出会いでした。
立って関節をリラックスさせる運動をしてから、自分がらく~な体制をとって、ただただ座る。
目を閉じる・・
(こういうたわいの無い仕種・動作さえ日常の生活からは切り離されている感がある生活をしてきた私。 日本の風土に根付いたものがたくさんあるというに、禅に由来することがその例だと・・これからはいろいろな見方が変りそうでうれしい。)
浮かぶ事柄のすべてをあるがままに見つめて受ける。
聞こえる音や身を包む空気も、すべてを自分に入ることを許して受ける。
意識を集中させつつも、過大にとらわれないレベルを感得するには至らないながら、体も心も寛いでいくのがわかる。ありのままの自分を受け入れる瞬間。
何事につけ気持ちを縛りがちな私を解放するにはうってつけの手段。
心の平安こそ求めていたもの。続けていれば得られそうな気がする。
頭でわかるのでなく、体でわかる。こういうことって大切にしたいと思いました。
ハーブの香りやリラックスできる音楽も大いなる助けになることを感じました。
2ヶ月に一度位の割合での開催とのこと。次回が楽しみです。
それまで毎日、できるだけ毎日、静かに何もせず、自分を見つめる時間を作ってみようって思いました。
瞑想会終了後のお茶会での皆様とのやりとり、これもとてもよかったです。
始めから終わりまで、すべてセットになってるから、よかった!の感が倍増するのでしょう。
次回もぜひお仲間に入れてくださいますようお願いします。
いつも夫と朝の散歩に出かけ、途中で別れて彼は出勤。今日は早速に散歩から帰宅して太極拳・庭の草取り、そして休憩後に「瞑想」10分。
盛りだくさんながら、メニューに取り入れ、早速やってみました。
なんだか昨日の余韻がスムーズに「瞑想」もどき?にいざなってくれました。
明日も多分、できそうな予感。なんだかこれだけでハッピーですね。 (A)
瞑想会の帰り。やはり、隔月のワークショップは自分と向き合う絶好の機会となっている☆
たとえば勉強している時、あっちゃこっちゃに意識が奪われる。「なんか集中できないんだよな」というのがまさにそんな状況。
それが瞑想会では肌で感じられる。まずは身体をほぐしてからスタート。手首やひじや肩や首を回し、リラックスを促す。シンプルな方法は目をつぶり、深呼吸を数回終えてから自分の中に意識を向ける。
言葉でいうよりは実際に体験することで得られることが大きい。日常生活では何もしないで自分と真っ向から向き合う機会は心がけないと皆無に等しいからだ。何気なくやったつもりでいたり、気晴らしに近いことをしているにすぎないと個人的に感じている。
そこから抜け出す一歩が瞑想で生まれる。普段いかに意識が他のところにいて、思考が流れてないのがよくわかる。気付くことで同じことを日常生活の中でしても深みが増してくるのである。
これを機会にまたただ何もしない時間を一日のうちで確保していこうと思う☆ (T)
私たちは絶えず「幸福」であることを望んでいます。
しかし望みとは裏腹に「不幸」の影は絶えず私たちに従っています。
この日はこの二つのキーワードを見つめ、理解することから瞑想のスペースの中へ入っていきましょう。(Soham)
●自分の身体と自分の意識が一体化する時間でした。身体を動かしながら、瞑想の域に達するためには、普段の生活の外面の世界を抜け、他人には見えない内面の世界に辿りつくことが不可欠です。それは、木にたとえれば、外に見えている部分だけで、根っこの部分が存在することを意味します。
悲しいとき、切ないとき、嬉しいとき、楽しいとき、どの瞬間においても、その根っこが存在することを意識して生活してみる時間って、とても大切なんですね。不幸せにはせが、幸せには不幸せが、両面存在することも、自然と入ってきました。
自分だけの時間を毎日心がけようと思います。(T)
●当日も少し話しましたが、以前からネットで「オーシャン」のHPを見ていたのでsohamさんにお会いできるのも楽しみの一つでした。
自分の父との関係があまりうまくいっていないので、sohamさんのようにお髭をたくわえた「お父さん」のような男性には、どう接したらよいのかいつも戸惑ってしまうのですが、昨日はとても安心してお話が出来て不思議でした。
全身真っ赤でサンタさんのようでもありましたね(笑)
最初にやったタロット、びっくりするほど自分の状況にあてはまっていて、少し怖いぐらいでしたが、自分が進もうとしている道が間違っていないという確信を得ることができました。
瞑想は、ノーディメンション(無次元)という名前にも惹かれました。
旋回や同じ動きの繰り返しの中で、上下左右がわからなくなるような錯覚に陥り、自分の体も、軸だけであとは外界と一体化したような(体が無くなった様な)今まで未体験の不思議な感覚を感じました。とても気持ちが良かったです。
それに、先週からずっと痛かった左手が、瞑想から帰って一夜明けた今日は治っています。不思議です。
私の左手が訴えていたなにかのメッセージを、潜在的にでも理解してあげたから痛みが去ったのでしょうか。。。
自分の内側を見るという、瞑想の目的には到達できなかったような、邪念雑念だらけの1時間だったような気がしますが、あの場だけで終わらせるのではなく、こういった時間を毎日5分でも、継続して持つということが大事なんだなと実感しました。
今後もいろいろな瞑想を取り入れていかれるのだと思いますので、また体験しに行きたいと思います。来年またよろしくお願いします。(K)
「祈りとは信仰や教義、伝統、などとは一切無縁で純粋に空な境地を意味しています。
そして人はその中で初めて己の真実の顔を見出すと言われています。
この日は自分自身の内なる静かで純粋なエネルギーを感じることから
それぞれの内なる真実に出会っていきましょう。」(Soham)
●瞑想会ではお世話になりました。私の心境が変わったのか分りませんが、3日過ぎましたが、いつもでしたら忘れてしまう瞑想会の雰囲気や感じ方が体に残っています。
どこか深いところで静かな源泉が存在し、心地よい感じや安心感があります。
最初は3人だけでしたのに、多くの人たちに囲まれていた感じが残っています。
自分の思ったことを言ったりしても、反論しないで、すべて受け入れてくれる雰囲気があり、喋りながら自分で気付くのもいいですね。 (M)
●祈りの中身が、すぐに「お願い」になってしまい、自分にとって純粋に祈るというのは本当に難しいものだと思いました。日常の課題に縛られて窮屈になってしまいがちな毎日の中で、「素」の自分に戻れる時間はホントに貴重です。毎回リフレッシュした感覚をとりもどしています。
後半から参加されたHさんが「途中から参加したので、皆さんのゆるんだ感じとのズレを感じて、なかなか入っていくのが難しかった。」と言われていたのが印象的でした。2時間くらい瞑想するうちに、自分では気づかないうちにゆるんでいたんですね。改めて大事な時間だと思いました。(O)
「瞑想は食事に似ています。
さまざまな技法が存在していますが、それらはまるで料理の献立のようなものです。
さまざまな献立は食事への興味を育みますが、本質は体が生きのびることを支えることです。同じように瞑想は私達の内面が人間として成長することを育み支えていきます。」
(今回は若い方たちの参加が新鮮でした。)
●瞑想では、音にあわせてハミングした後に,目をつぶっていくという過程での瞑想が,自分で表現すると、うたた寝に入っていくような心地よさがありました。
最初につけてもらったミントの香りがしたオイルも好きです。
4つのタイプの瞑想も,踊っているときなど,「ああ,早く座りたい・・・」などと思いながら、座ったときや寝転がった時の心地よさが忘れられません。
そのような経験をした事が,少しでも運動をしようという気を起こしたのかもしれません。
表現が難しいですね。(J.O)
●実際に瞑想に参加していろいろなことを感じました。
まず、最初に驚いたのは踊るということでした。瞑想には座禅のように静かにすわるというイメージがあったので、こんな瞑想もあるのだなと思いました。
ソハムさんが言っていた、「私たちが見ている木は半分だけで、実際は土の下にも根っこがある」という言葉にはなるほどと思いました。
自分でいつも自分自身に問いかけていたつもりだったのですが、ぜんぜんできていなかったことに気がつきました。ただボーっとしているだけで、本当の自分に目をむけていなかったことに気がつきました。
最後のお茶会はとてもたのしかったです。
インドの瞑想大学(?)の話や、(物をねだって)ポケットに手を突っ込んでくる子供の話、興味深かったです。ただもう少しほかの方の話を聞く時間もほしかったです。
また、機会があれば行こうと思っています。(H.S)
♪ 緑あふれる季節、大地とともに
自分自身のエネルギーを感じてみませんか?♪ ♪ ♪
「そっと目を閉じて内なるエネルギーを感じる時、
あなたは今自分自身をどんな風に感じるでしょうか?
硬い感じ? 軽い感じ? 窮屈な感じ? 楽しい感じ? ----
この日は私達のこれら内なるエネルギーと遊び、瞑想することで、
ありのままの自分でいることにくつろいでいきます。」
ファシリテーター:Soham(ソハム=飯島嘉昭・OCEAN主宰/ボディワーカー)
● 瞑想会って何年続いていますか。私はほぼ毎回参加しています。
何が良いのか良く分りませんが、大本さんに勧められるまま続いております。
瞑想というとなにそれ、とかなんか怪しいと今でも言う人がいます。
私にとって終わったあとの大本さんやソハム(飯島さん・ファシリテーター)や参加者との楽しいおしゃべりやちょっとした気づきが一番です。
それから瞑想会の間のなごやかな、しかしちょっとした緊張が、身体と精神に良い刺激です。
何か子供のころ田舎で過ごしたなつかしい思いがすることがあります。
自分一人では集中するのはなかなか難しいですがここでは少し深くなれます。
あと普段の生活でも思いが残っていて落ち着けたりして良いのかなとも。
今回の会場は綺麗な広い和室で最高でした。(M)
● 今回の瞑想会は今までになくアクティブだった。
一般に私たちの持つ瞑想というイメージは、なにかこう静かに座って自分をひたす見つめるというような、「静」のイメージがあるが、必ずしもそういうものでもないとわかった。
会場が今までより広くて、身体を動かすのに向いていたということもある。やはり場所のつ雰囲気は中身をけっこう左右する。空間がホッとして解放感に浸ることができた。
最初はいつものように、ウオーミングアップのタロットカード、これが実は楽しみ。 自分の引いたカードはもちろんだけれど、お隣さんのカードにも興味が湧く。
お隣の引いたカードは「Letting go」。なんとまあ、このカードがステキだった。 蓮の葉(?)にたまった露が葉の先に集まり、今まさにそのひとしずくが落ちようとする間が描かれている。葉の下の水面には、先に落ちたひとしずくの波紋が広がっている。
私たちが日頃、いろいろな思いにとらわれてなかなかできない「Letting go(手放す・解放する) 」。 それはまさに今落ちようとする露の一滴!そして、手放して任せたときに、初めて波紋=広がりが生まれる。しみじみ感じ入ってしまった。
で、私のカードは「Breakthrough(突破)」「いいんだろうか?自分にできるだろうか?」一抹の不安がありながらも、そんな不安な私の背中を押されたようで嬉しい。
普段当たり前のように思っていることの価値が、瞑想することで見えてくるのは、発見でもあり、幸せが一つ増えるようでもある。
たとえば呼吸一つでも、自分に新鮮なエネルギーを運び込んでくれ、それを手足の隅々までくまなく行き渡らせることができるすばらしいメカニズムだと気づくことができる。
それだけでも生かされていることへの感謝に連なる。
普段忙しく走り回っているときは、「呼吸なんて、そんなの当たり前じゃん」という感じしない。見過ごしている価値に気づくと、自分も人も愛おしくなる。横着な私はこうした瞑想の場でやっとそれを気づかせてもらっている。
(R)
「この日は日頃傷つきがちな私たちのハートに愛のエネルギーを注ぎ、
瞑想とともに心からくつろいでいきましょう。」Soham(ファシリテーター)
日々の瞑想のまず一歩として誰にでもできることは、何もしないでいる時間、自分を見ている時間をつくること。たとえ一日に5分、最初は1分でもいいからまず始めてみること。
参加者からの質問、
・Q:「自分で(瞑想を)試みるが、いつも途中で眠ってしまう。」
講師のコメント、
A:「目をつむる=眠る」というように条件反射として、私たちはインプットされてしまっているため眠ってしまいやすい。あるいは疲れがたまっていたためかもしれない。いずれにしても眠ってしまったからそれでやめてしまうのではなく、それでもいいからやり続けることが大事。
最初は気がついたら寝ていたということが多いかもしれないが、それでもやり続けていると、「相手」が根負けして、結果できるようになる。通常はうまくいかないとその時点でやめてしまうが、それをやめずに続ける。
最初はうまくいかなくていろいろ脱線したとしても、それでもやり続けると必ず変化が起きてくる。
(文字にすると強く感じられますが、強制的ということではないです。念のため)
●ハートは普段忘れられているなあと思った。
たとえば、瞑想していてもいろいろな廻りの雑音に気を取られて、ハートに意識を向けられない自分に気づいた。自分の内側でなく外側に気を取られて、ハートに意識を向けようとしても長続きしない。きっと日常生活でも同じことをやっているのだと思う。
外側を意識するのと同じように、ハート(気持ちや感情や感覚)に意識を向けることが自分のバランスをとる上で必要なことだと「改めて」思った。
毎回、「ああ、そうだった!」と思い出し、また次第に外に目を向けることに大半を費やして日々を送っている。だから時々こういう機会を持つことは自分にとって、とても大事だと「改めて」思った。
★「怒りと悲しみは一つのことの両端、例えば、(棒状の物の両端を示して)これはどちらの側を見るかで見え方はまるで違うけれど、それは見え方が違うだけで実は同じもの。」
★「表されなかったエネルギーは怒りになって残る。怒りの基になった事実は消せないけれど、その時にため込んだ怒りというエネルギーは、解放してあげることで何度も怒りを繰り返さずにすむ。(事実が私たちを苦しめているのではなく、その時に解放されなかったエネルギーが後々まで私たちを苦しめている。)」
★「怒りというエネルギーを閉じこめておくことで、他のエネルギーもふさがれてしまう。」
悲しみ、涙、性差と表現などなど。
★「歩くことはそれだけで素晴らしい。現代人はすぐにいろいろなものを歩くという行為にくっつけたがるけど、歩くと言うことはもうそれだけで完璧なこと。ただ歩けばいい。ただ走ればいい。」
● ♪ 「マヤマ アセス、アセス マヤマ、…マヤマ オロロ、オロロ マヤマ、… (人は生まれて、生き、川は流れて、海に注ぐ、の意。)」 ♪
講師のリードで一緒に歌った。今でも耳に残っているシンプルで緩やかな音楽。
曲を口ずさんでリズムに身を任せていると、自然に心も解放されていくような心地よさだった。
今回のテーマは「怒りと悲しみ」。
日頃、目を背けてしまいがちなテーマに、率直に、穏やかな気持ちで向き合えたことは貴重な体験だった。参加した人達がお互いに、ありのままの自分を分かち合えたひとときは、せわしなく過ぎてしまいがちな日常に、新たなすがすがしい風を送り込まれたような気持ちだ。
日常の中の瞑想って、ひょっとしたら、ちょうど窓を開けて時々部屋の空気を入れ換えるようなものかもしれない。私たちの日常にも新鮮な空気を通してやることが必要なのだと痛感する。きっと、昔の人は、もっと自然との関わりなどからいろいろな方法で瞑想に似たひとときを持つことができていたのだと思う。
登山家の田部井淳子さんの言葉を思い出した。
「自分は運動は苦手だったが、あるとき山に登ってやっとの事で頂上に着いたとき、自分が登ってきたことで今ここに立っていると思うと、自分にもできるんだと思った。自分が歩いたからこそ今ここにいるんだ。その体験が自分が登山家になった原点だ。」
足を交互に動かすという一歩一歩の動作が、何千メートルの山に自分を運んでくれる。
瞑想会後のお楽しみの「ティータイム」とともに、エソジェティックオイルの豊かで爽やかな香りの残る瞑想会が終わった後の室内は、とてもよいエネルギーが感じられて心地よい