PAST ACTIVITY
最近、あるお母さんから、こんなお手紙を頂きました。
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今日は一つ聞いて頂きたく筆をとりました。
先生、“子育て勉強会”にて食事について語り合ったことがありましたよね。
バスでの幼稚園通園だったA子(娘さんの名)。バス停で冷凍食品を使わない私は疲れていて、ある園児のママより「愛情込めてチン」と教えて頂きましたが、
お弁当の蓋を開ける楽しみがなくなるし、お弁当は愛情の応援歌と信じ、今日も毎朝作り続けています。
ある日、A子が「ママー、みんな、主食から何から何まで冷凍食品なんだよ。ある子なんて、お母さんに『ハンバーグ手作りして欲しい』と頼むと、食べたければ自分で作れば、って言われたんだって」と言って話してくれました。
悪口も言いたくなかったので、「そのお母さんもお忙しいのよ」と返事をしたんですが、何日か経った予備校の保護者会でこんなことがありました。
大学選びの話で、
・人生の目標とは何ですか→(娘の答え)努力・幸福
・今まで生きてきた16年間で{幸福、努力}と感じた瞬間は?→食べてるとき
・その時の感想は?→もっと食べたい
・何故そんな気持ちになるのでしょうか?そしてその根本的原因はどこにあるのか?→自分の為に他人がしてくれているから
・そのような気持ちで人生を送れたとしたらどうですか?→幸せ
基本は興味関心から職業を選ぶという結論に。
たかが食事なんですが……。16年間毎日毎日、家族のにっこり笑っている顔が見たくて、元気に育って欲しくて…。
いつか巣立っていった時、お母さんの味を思い出し、どんなに愛し幸せを願って育ててきたのか思い出し、伝わればいいなーと台所に立ってきた私の思いは、
言葉にしなくても娘には伝わっていたんだなーと思い、私は涙が出そうになりました。子育ての答えは5才の頃のお弁当の答えが11年経って出るのですから…。
自分を信じ続ける信念と忍耐が必要なんだなーと思いました。皆で色々話し合えた『子育て勉強会」私の心の故郷です。
大本先生
A.T
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この時のことは私もよ~く覚えています。「愛情込めてチン!」は私にも衝撃の一言でした。時代は変わったんだなあと…。
で、当時の子育て勉強会の記録を捜してみました。すると…、ありました。2000年3月に<「食べる」・大本の子育て体験を素材に>というテーマで取り上げていました。いつものように、
皆さんから体験談や日頃の思いを話していただき、気持ちを大事にしつつ、意見や情報を交換し、考えていくという進行でした。
こんなメモ書きが残っています。「早起きして作っていると、『どうして?』と言われる。」とTさん。それに対する私のコメント。「食事は食物を口にするだけではない。人間関係を同時に取り込むことでもある。『お袋の味』『私の好物』等。食のこだわりには何らかのその人なりの歴史がある。
『個別性』を大事にしよう。…略…今すぐ成果が出ないが、必ず本人(子ども)を根元から支えてくれる糧になる」とお話ししていました(こんなこと言っていたんだ!なるほどねぇ~(笑)。
改めてこうしてお手紙をもらうと、やっぱり勉強会の学びは間違っていなかったのだと、Tさん同様、胸が熱くなりました。私自身も、つい便利さに流されがちになっていた最近の食生活を、もう一度見直してみようと思わされました。
('10/10/28)
新聞記事で知ったことですが、最近はインターネット上のサイトを利用して、子どもに絵本を読んでやったり、子育ての情報交換をしたりと、ネットを活用して子育てをするお母さん達が増えているそうです。サイト上の子育て相談やチャットは知っていましたが、ネット上で絵本の読み聞かせもできると知って、いささかカルチャーショックに近いものを感じました。
親子でパソコンに向かい、サイトに公開されている絵本をクリックし、パソコン画面の絵本のページをクリックして、ページをめくり、読んでいきます。絵本を読むとは、紙のページを一枚一枚めくって読むこと、としか頭になかったのでビックリしました。そういう時代なのだなあと、今さらながらネット社会の実感を強くしました。
しかし、そうは言ってもやはり、紙の絵本の良さには捨てがたいものがあるのではないかと、紙製絵本にこだわりたくなります。(以下、絵本という場合は、従来の紙製の絵本のことです)
絵本を子ども達に読んでやると、「読む」以外のこともいろいろ体験できます。
絵本を読んでやりながら、途中でページをめくる。うまくめくれないと、子どもの「早く次を!」と催促するような熱い視線を感じます。もどかしい思いでページをめくります。うまくサッとめくれなかったりすることが、子どもの期待感をいっそう強め、絵本を読むワクワク感が広がります。
また、本を手にしたときの、装丁や手触りも、絵本を読む楽しみには意外に欠かせない要素です。 本の大きさ、形、紙の厚さや質感。何度も読んでフニャフニャと柔らかい手触りになった絵本。すり切れたり、破れたり、背表紙がはずれそうでパカパカになってきた絵本も、テープや糊で修理しては読み、もっと大事な一冊になっていきます。
こんなふうに、絵本への愛着は、お話の中身ばかりでなくいろいろなことから育まれていきます。これらは「リアル」の絵本を通してこそ得られる体験です。ここに挙げた例は、豊かな絵本体験のそのほんの一部に過ぎません。そんな意味からも、親子の絵本体験が思い出深いものになるように、できればウエブ上ではなく、実際の本を読んでほしいなあと、つい思ってしまうのです。
とはいっても、なぜネット上での絵本の読み聞かせや子育て情報交換がはやるのかという理由を知れば、ナルホドと納得できる部分もあります。
インターネット上だと、直接人に関わらなくてすむので何より煩わしさがありません。「公園デビュー」の必要がないからです。図書館にしても公園にしても、行き帰りの交通事故や思いがけない事故(最近はいろいろなことがありますから)を心配しなくてすむのが助かるといったことも一因のようです。
「公園デビュー」という言葉を耳にするようになってからだいぶ経ちますが、本当にいまどきのパパママはたいへんですね。人づきあいがおっくうになるのもわかる気がします。
そんな言葉すら存在しなかったあの頃(30年前?)。好きなときにブラッと公園へ子どもを連れて行き、出会ったお母さん達と気楽に言葉を交わし、好きなときに帰って来ていました。当時は公園に来ている顔ぶれも行くたびに違っていましたし、特に気遣いすることもなく、帰りにはマックではなくて、簡単なおにぎりやふかし芋持参で、ベンチでゆっくりいただきました(東京23区内の住宅街でしたが、のんびりしたものでした)。
いつの時代もその時代ならではの苦労があります。便利なようでいて、今は今の時代ならではの苦労があるはず。それは体験している当の親御さんでなければ、なかなか分かりづらいもので、つい外から批判してしまいがちですが、自戒しなくてはと思います。
ネットの絵本を上手に生かすことで、お母さんたちの苦労や心配ごとが少しでも減るのなら、それはよいことです。でも、そんな中でもたまには、紙の絵本を読み聞かせる体験も、親子で楽しんでいただけたらなあと願っています。
参考までにこんなすてきなサイトを見つけたので、ご紹介します。
国立子ども図書館「絵本ギャラリー」
コンテンツがギッシリ。おとなも楽しめそうです。('09/11/25)
良質の絵本の編集で名高い松居直(まついただし)さんの言葉です。 「へえ、そうだったんだ!」と今頃(もうとっくに子どもたちが成人してしまってから)感心している私です。
そういえば確かに、自分で読むより読んでもらうほうが何だか絵本の楽しみも倍増するような気がします。松居さんも言っていますが、絵本を読むというよりも、絵本を通して人と人とが肉声を介してふれあえることがすばらしいのかもしれませんね。
子どもって、本の内容より、途中のハプニングや、脱線したオシャベリを楽しんでいるようなときのほうが多かったりします。一生懸命読んでいるこちらとしては、「ちゃんと聞いてほしいなあ」と、つい思ってしまうのですが…。
それに、「え?どうしてここで?」というような思わぬ所で反応したりもします。
我が家の子ども達が小さかった頃、こんなことがありました。
上の二人が4歳と2歳くらい、まだ末っ子が生まれる前だったでしょうか。当時、テレビ番組で「まんが日本ばなし」という番組がありました。市原悦子さんと常田富士男さんの語りが抜群にうまく、独特の味を醸し出している番組でした。それらの番組の語り口をそのままに本にまとめたものが出版されていました。番組そのままのマンガが挿絵として所々に入っていて、大きめのA4判くらいで厚さも2㎝はあるような、結構ボリュームのあるものでした。
それを毎晩、子ども達が寝る前に読んでやっていたのですが、そのうち夜に限らず、本を持ってきては「ここ読んで」というようになりました。「読んで」というお話の箇所は、決まって「桃太郎」の一場面でした。おばあさんが川で洗濯をしていると、桃が流れてきて、その流れてきた桃を持って帰り、包丁でさあ切ろうという場面です。
子ども達のお目当ては、お話を聴くというよりも、そこでの、あるリアクションを期待していたといった方がよいかもしれませんが…。
「おばあさんが桃に包丁を当てると、
桃がパッカーンと割れて、
元気の良い男の子が生まれました。」
(というような文章だったような…。うろ覚えです)
この場面を繰り返し、「読んで」と言い、読み終わるとまた、「もう一回読んで」と言ってくるのです。
「おばあさんが桃に包丁を当てると、」
の所まで読んでくると、二人が息を詰めて次の言葉を待っているのがわかります。
「桃がパッカーンと割れて」の「パッカーン!」の所で、二人ははじかれたように、のけぞって笑い転げます。でんぐり返りまでしちゃいます。まるで自分が桃から生まれたみたいです。(マンガの絵がまたおかしかったせいもあります。元気モリモリの赤ん坊の桃太郎が、桃からはじけ飛んで出てくるんです)
私も図に乗って、「包丁を当てると」の所でワザと間を開けては、いたずらっぽく二人の目をのぞき込んでから、豪快に「パッカーン!!」、と読んでいました。 そんなこんなで親子で大笑いしました。
何十年たっても覚えているくらい、他愛ないけど、けっこう楽しい思い出になっています。(子どもたちは覚えているかどうか…)
絵本は読むよりも、親子の時間を楽しめばよい、という松居さん。私の場合、テレビ番組の収録本ですから、絵本とはちょっと違うかもしれませんが、あのひとときにも親子で絵本を読むのと同じ楽しさがあったことは間違いないように思います。
とはいっても、
・毎日同じ所ばかり読まされてうんざり
・ちゃんと聞いていないし、脱線ばっかりしてるから、ちっとも先に進まないし、
なあんて思っていたんですけどね、当時は。
子育て中のお父さんお母さん、同じ所を読んで読んでと繰り返しせがまれても、ウンザリしないでくださいね。どうか、童心に帰って楽しまれますように!きっと、お子さん達が大きくなったときは、良い思い出になると思いますよ。
('09/3/15)
ある嵐の夜、1歳8ヶ月の男の子を毛布にくるみ、雨の砕ける暗闇の中を、海岸へと下りていく女性がいるとしたら…。
そして、二人は、波が真っ白なしぶきを上げ、砕ける怒濤の海が広がる真っ暗な波打ち際に立ちすくみます。広大な海と陸地との境界に。
心配しないでくださいね。 女性は海辺の別荘で、甥と過ごし、自然の姿を甥に見せたくて、嵐の海辺に下りていったのです。 やがて二人は、心の底から突き上げてくる喜びに満たされて、思わず声をあげて笑っていました。
真っ暗な嵐の夜に、幼い子どもを海辺に連れ出す、この<すてきな>人は誰だと思いますか?
「沈黙の春」で知られる、著名な海洋学者のレイチェル・カーソンです。 甥にとっては初めての荒々しい海。カーソンにとっては、人生の大半を過ごしてきた慣れ親しんだ海。そんな慣れ親しんだ海も甥と過ごす嵐の夜は、また改めて、「ワクワク、ドキドキ」の海だったんですね。笑い声を上げたくなるくらい…。
カーソンは、「センス・オブ・ワンダー」(わくわく、どきどき:大本)がとっても大切だと言っています。子どもにはまず、<「知る」ことより「感じること」を>と、別荘で過ごす甥との時間にも、いっぱい「わくわく、どきどき」を感じて過ごしました。
さわやかな緑の季節がもうすぐそこ。 お子さんと一緒に「わくわく、どきどき」見つけてみませんか?('08/4/16)
「教室で、私は子どもがかわいいなんて思ったことはありませんでした。」
えっ?と、思いました。大村はまさんんといえば、国語教育を通して常に子どもの側に立ち、深く子どもを見つめ、教育に尽力されてきた方だからです。 しかし、言葉はこう続いていました。
「教室で、私は子どもがかわいいなんて思ったことはありません。もちろん、かわいくないと思ったこともありません。 かわいいとか、かわいくないとかの世界ではないのです。教えることが忙しくて、そんなことを思っているひまがないのです。」
実は、ここまで読んでちょっとホッとしました。 なんだか、私自身の子育てで猛烈に忙しかった時代のことが思い出されたからです。あの頃は、その日の家事育児で手一杯で、子どものかわいさを楽しむ余裕はほとんどなかった気がします。そして、今になってそのことがとてももったいないことをしたなと思われていたのです。もっともっと、楽しんでおけば良かった。叱るより一緒に笑ってやれれば良かった、とも思いました。そして、もっとじっくり子どもの声を聴いてやれば良かったとも…。 でも、この大村はまさんの言葉を読んで、忙しくてかわいいと思うゆとりのなかったことも、少し許せる気がしました。それでもよかったんだよと…。
はまさんの言葉はこう続いています。
「あの子にはこれを、この子にはこんなふうにと、次々に手を打たなければならないことがいっぱいで、ほかのことを考えるひまがありませんでした。
そうしてやっていくことが、結局は子どもをかわいがっていることではないでしょうか。」
よく、孫は手放しで可愛いと言うのも、責任ある子育てから解放されて、やっと可愛く思うゆとりができたということなのでしょうね。この複雑な時代を生きる若いお母さん(&お父さん)達が、少しでもゆとりを持って子どもたちに接することができるよう、さて今度は私がお手伝いする番のようです。
わくわく授業 (平成17年 NHK教育番組) (’07/10/27)
最近は、お弁当作りのための雑誌があるのですね?!新聞の折り込みチラシを見て知りました。学習雑誌の会社が発行元です。 丸く可愛い小さなおにぎり、型抜きした野菜や果物、赤・黄・緑と中身もカラフルです。食べやすい大きさや切り方、調理の工夫に加え、子どもが飽きずに食べられるよう至れりつくせりです。お弁当箱は、まるでお花畑のよう。お弁当の時間が楽しいでしょうね。 でも、でもです。これが毎日毎日続くとしたら、お母さん息切れしませんか?ちょっと心配。 お弁当は特別の日の行事ではなく、毎日の食事のうちの一回ですもの。安心できる材料で、あまりお金や手間をかけず(何しろ毎日ですから)、手作りのお弁当を持たせてやれたら、それが一番!と思います。冷凍や半調理品もうまく使って…。カラフルでなくても、可愛く型抜きしてなくても…。
もうすぐ新学期、入園入学の袋物作りなどもあるのですね。頑張りすぎてお母さん自身が疲れてしまわないように、できる範囲のことをやれればそれでいいのでは?「後はニコニコできる余力を残しておいてね」っと、まずそれをお母さん自身のためにお願いしたいなあと思っています。('07/3/26)
テレビの若いパパママ向けの番組で、公園でどうやって子どもを遊ばせるか、というような内容をやっていた。想定は若いママが2~3歳の幼児を連れて公園に行ったとき、まだ遊具で遊べない子どもとどう過ごすかということのようだ。
指導のおじさんが言います。「公園にたぶん落ちていると思うんですが、棒きれをこうやって地面に置いてみると、もうこれだけで子どもは遊べるんですね。」と言って、 地面に横長の向きに棒を置く。画面では2歳くらいの女の子が地面に置いた棒を飛び越える(まだ足元が覚束なくて、飛ぶこえるというより、またぐ感じ)。「短い枝で地面に絵を描くこともできますね~」とおじさんはアドバイス。
棒きれでどうやって遊ぶかを教わる…最初は不思議な気がした。こういうことは教わることではなく、その辺にある物を工夫して幾らでも遊べるものだと思っていたからだ。
しかし、次第に「そうか!そうなんだ!」と納得。 若いパパやママの世代はちゃんとオモチャがあったのだ。棒きれで遊ぶ必要がなかったのかもしれない。近くに公園や緑地がなければ棒きれで遊ぶなどということは、やりたくてもできなかったかもしれない。
こうやって子どもを遊ばせながら、パパやママも棒きれで遊ぶ初めての体験をしたのだと思う。子どもは遊びの天才、慣れてきたらパパやママが子どもから遊びを教わればいいですね。そうして子どもに帰って遊べるといい!
来年の手帳を買おうと思い、駅ビルの文房具屋に行ったときのことです。手帳を選んでいると、背後から女性のヒステリックな声が聞こえてきました。振り向くと、二人の子どもを連れたお母さんでした。子どもは小学校3年と1年くらいでしょうか。お母さんは陳列棚の間を移動しながらずっと叱り続けています。 「なんでそういつもいつも買わなくちゃいけないわけ?!」 子どもがしつこくおねだりでもしたのでしょうか、お母さんは買わない理由を次々あげて、立て板に水の勢いでしゃべっています。子どもたちの声はほとんど聞かれません。 とぎれることなくしゃべり続けるお母さんの声だけが、しっかり私の耳に残りました。
その後、文房具売り場で買い物をすませた私は、地下の食品売り場へ移動しました。するとしばらくして、どこからか聞き覚えのある声が…。 あの親子がエスカレーターから下りてきました。 お母さんはあいかわらず、 「○○○、△△△△、◇◇◇・・・・・・・・・、」と、ヒステリックな声で続けています。 話題はさっきと同じなのか違うのかわかりませんが、一方的にずっとこれを聞かされていたと思うと、子ども達に同情したくなりました。 うまく話すのは難しい。けれど、聞くことはもっと難しい。それを痛感した出来事でした。お母さんに30分のコーヒーブレイクをあげたい!
ある時、平和資料館を見学していたときのことです。中学生らしい一団がザワザワと入場してきました。静かな館内がいっぺんでにぎやかな話し声に満たされました。 生徒達は他の見学者の存在は目に入らないかのように、大声で仲間内の会話を続けます。中には、戦争で亡くなった若者の写真を見ながら「あ、これ○○にそっくり」と笑いあっている声も聞こえてきました。その様子は、静かに平和を訴えているその場の空気とはまったく似つかわしくないものでした。
その時私が感じたのは、直接の生徒達への不快感と怒りの感情でした。しかし後でよく考えてみると、むしろ責任を問われるのは、事前に十分学習せずに訪れるような計画を立てた教師や学校ではないかと思ったのです。 旅行先で友達と大勢で行動すれば、開放的な気分と集団のエネルギーで、当然 言動がふだんよりもオーバー気味になることは十分予想できることです。そこでじっくり見学する姿勢が必要とされる施設を訪れるならば、それなりの配慮と工夫が指導する側に求められます。
子どもや若者が問題行動を起こしたときに、私たちおとなは眉をしかめます。しかしそこで、本当に子どもや若者の責任だけなのかどうか立ち止まってみることが必要とされているようです。このときも生徒の側に立ってはじめて見えてくることなのだなあと痛感しました。 世代間ギャップがあるときには特に、頭ごなしに叱るだけでは問題が解決しないだろうなと、自戒を込めて振り返るできごとでした。('06/11/2)
テレビの福祉の時間で、発達障碍(LDやADHD、自閉症など)をとりあげていました。2週続きの特集で、その日は前回放送後に寄せられたメールの反響を紹介していした。約1000通届いた中で、お父さんからのメールはたった2通だったそうです。(そ れ以外はお母さんから) 番組の司会者もあまりの少なさに驚いていました。 で、そのうちの一通が、奥さんとお子さんが発達障害の男性、Aさんからのメールでた。奥さんだけでなくお子さんも発達障害だとわかったときに、Aさんは思ったのだそ うです。 「(妻と子どもを)愛して、愛して、愛し抜こう」って。それを伝えるメールでした。
Aさんは仕事を終えて家に帰る前のひととき、海辺に車を止めて缶コーヒーで一息つ いて、海を眺めるのだそうです。それから帰宅。 帰れば、家事と育児とがAさんを待っています。
その日スタジオに招かれたAさんの表情は、淡々として穏やか、そしてどこか晴れれしていました。
参考) NHK「ハートをつなごう」('06/9/7)
通勤ラッシュの終わった駅前広場。ちょっとのんびりした空気が広がっている。 そんな中、バスを待つ私の後ろからにぎやかな子どもたちの声。保母さんに連れら れた保育園の子ども達だ。公園までお散歩かな。 全員黄色の帽子をかぶりスモックを着て、二人ずつ手をつないで通り過ぎていく。 男の子と女の子が二人一組で。 オシャベリしながら…。手をしっかりつないで…。 そばを通り過ぎていく、そのつないだ手を見ていたら、なんだかとってもいじらしくなってしまった。 人と手をつなぐとき、私たちは人を信頼している。 この子ども達は何の疑いもなく、隣の友達を信じ合っている。 誰にもみんなこんな時があって大きくなっていくのだなぁ。
「手をつなぐ」 何でもないことのようでいて、当たり前のことのようでいて、本当はとてもすごいことかもしれない。手をつなぐことができるって素晴らしいこと! 子ども達の後ろ姿を見送りながら、心につぶやく。 いつまでもそんなふうに手をつなぐことができるといいね。('06/8/1)
うん? スーパーの帰り、左足のくるぶしに何かが当たった。振り返ると、自転車に乗った男の子。幼稚園の年長くらいだろうか。お母さんらしき人が、ゆっくりと私の右側を自転車で追い越していった。
男の子はやっと乗れるようになったばかりの様子。ハンドルが思うようにならない。ペダルに乗せた足がはずれてしまう。まっすぐに進めない。ハンドルが左に右に大きく揺れ、そのたびに、あーー、左に倒れそう、(何とか持ち直す)、あーー今度は右に。 3人分くらいの道幅いっぱいに、蛇行しながら走っていく、 お母さんはゆっくりゆっくり前を走っていく。そして曲がり角までいって待っている。お母さんは振り向かないで、そのまま男の子が追いつくのを待っている。やがて男の子と二人、そろって右に曲がっていった。 直後に車が一台、同じ方向へ曲がっていく。大丈夫かなあ。 曲がり角で見てみると、男の子はぎこちないハンドル操作ながらも、何とか左端によけて、お母さんの後ろに止まった。その横を車が速度を落として通り過ぎっていった。
再び男の子は、ハンドルにしがみつくように自転車をこぎだした。グラグラ、右に、グラグラ、左に。お母さんの後をついて行く。 車に気をつけてね。早くうまく乗れるようになるといいね☆(7/10)
某民放テレビの番組制作の取材で、突然電話がかかってきました。少子化対策とお父さんの子育て、というテーマだそうです。現在「子育て勉強会」は休会ですと言うと、ガッカリした様子で、同じような活動をしている所はないかと聞かれました。結果的に役に立つ返事はできなかったのですが…。 お父さんの現状が、いっそう厳しくなっていることは確かのようです。子育てに関わりたくても、以前にも増して少ない人数で、前より多い仕事をこなせと、上司から指示が出ているようなことはあちこちで聞きますから。家族と食事どころか、土日もないような生活。まず、こうした就業形態を変えることも、大事な少子化対策のように思います。 今年の父の日、お父さん達はどんな思いで過ごされたのでしょうか。(6/20)
「『子育ての疲れ』専業ママが上」という記事が新聞に掲載されたのが2004年。(厚生労働省調査) 外に仕事を持っているお母さんより、専業ママの方が「子育ては疲れる」「自由な時 間が持てない」と負担を感じていると結果が出ています。
特に疲れる具体的な理由として「子どもから目が離せないので気が休まらない」は、 仕事を持つ母親が33%に対して専業の母親は46%と差が大きく、子どもと一緒に 過ごす時間の長いお母さんほど、疲れているという結果が出ています。 しかも仕事を持っていても、子どもが生後1歳半になるまでに61%の女性が仕事を 辞めていることを見ても、子育てはお母さん一人が背負わなければならない現状は変わりないようです。
「昔の人は大勢子どもを産んだのに、何で今時の母親は一人二人が育てられなのか」という声もあります。しかしこれは状況の変化を無視した言い方のように思ます。 生活形態の変化に伴い、家族や近隣とのつながりが希薄な中で、助言や具体的なポートもなく子育てすることは、時には大きな負担になることも想像に難くありません。 少子化対策がとられたとしても、やはり周囲の暖かいまなざしにまさるものはありせん。
ついついギリギリまでがんばってしまい、お母さん自身が心身共に追い込まれないよ う、周囲が温かく見ていてあげることは今一番必要なことのように思います。('06/6)