PAST ACTIVITY
★ホームページがやっとできました。 http://www.serenity.jp
昨年暮れの30日にやっと…。それ以前に、5月頃、お手伝いくださったSさんがアップしてくれていたのですが、その後、大本がテキストと首っ引きで手直ししては行き詰まり、手直ししては行き詰まりを繰り返しつつ、とうとう12月末になってしまいました。2002年中には絶対に立ち上げるぞと、夜中に鬼の形相(?)でパソコンに向かっていた私にお寿司を差し入れてくれたKさんにも感謝! 後日、まったくの初心者が1週間でアップさせたとかいう話を聞いてガックリ…!でもまあ、なんとかここまできました。少しずつ充実させていきますのでよろしく。
★新生セレニティ・カウンセリングルームの誕生。
女性のためのカウンセリングや子育て勉強会などを中心に、学ぶことや生き生きと自分自身を楽しむカウンセリングルーム(カウンセリングを越えたカウンセリングルーム)として活動していきたいと思います。 当面の教師研修部門は小学校教師対象の手塩研のみとなります。
大本の専門と活動領域の選択からこのような体制になりました。女性対象の活動が中心となるかと思いますが、もちろん男性にも活用していただける催しや研修を順次設定していきたいと考えています。また、今までのセレニティの流れである教師研修など学校教育との関連についても、可能な範囲で関わって参ります。
このような試行錯誤の再スタートですが、どうか今までにも勝るご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます
今レインボーホームでは28人の子供を預かっています。男の子14人、女の子14人のちょうど半分ずつです。 最高が10才の女の子で最年少が1才の男の子です。今月(1月に2才になります)
今子供の教育の事が問題になっています。 レインボーホームはカルカッタの地図にも載っていないほどの、ど田舎にあるのですが、近所にはろくな教育をしている学校がありません。 宿題は沢山出すのですが、その採点に間違いがあったり英語も間違った英語を教えたりしています。 算数の採点結果を見てみたら、正しい回答をしているのにペケマークがついていたり、英語の問題のアルファベットが間違ったりしています。 問題間違いがあるのはまだ良いとして、学校での勉強時間は毎日朝8時から10時までの2時間だけです。それでホームスタディーとしての宿題が腐るほど出されます。その問題が間違ったり採点ミスがあったりするのです。
ですからホームでは今2人の家庭教師の先生を雇って、ベンガル語やヒンディー語、学校の宿題などの教育に沢山の時間をさいています。ですからホームは何となく学校のような雰囲気になってきました。 私はその状況を見てインド人のマネージメントスタッフに「いっそのこと学校にしたら!?」と言いました。どうせ近所にロクな学校は無いのだから。
どこの子もそうでしょうが、インドの子達はいろんな物に興味を示します。それも大きな目を見開いて鼻息も荒く、「これは何だ?どうしてこうなるんだ?教えてくれアンクル!」とすごい勢いで聞いてきます。
先日まで私は子ども達の下駄箱を日曜大工で作っていたのですが、ノコギリやトンカチでギコギコ、トントンしている音を聞くと子ども達がドーッと集まってきます。 それで「アンクル!これは何を作ってるんだ !? この道具は何?」と聞いてきます。 ですけどその返事をする前「ボクにもやらせて!やり方を教えて!お願いだからやらせて!」 と言ってきます。子ども達が私に期待する返事は「イエス」だけです。 やり方を教えなくても自分達でかってに想像して、大工道具がいつの間にか遊び道具になります。 日本からのドネーションで子供の玩具が送られてくるのですが、すぐに壊してしまいます。 ですから「しばらくの間オモチャはやらないっ!」と叱りつけると子ども達はダンスや駆け足で適当に遊びをアレンジします。それが「ホホー…」と頷かせるほど見事な遊びを考案するんです。それは見事ですから言葉で説明出来ないのが残念です。子供の想像力の豊かさにはホトホト感心させられます。
そういう子ども達を見ていたら、教育というのは子供の知らない事を教えるばかりではなく、子供の想像力をかき立てる教育、想像するためのガイダンスやハウツーを教えていくのが良いのではない!? と考えています。 教育学は小島先生の専門ですから、素人の私が言うのも何ですが、何かを作り出すための想像力と創造力を養う手助けをするのが教育ではないだろうか、と考える今日この頃です。
それと私は今、子ども達に習得してほしいことが2つあります。 1つは「我慢する」ということと、もう1つは「分かち合い助け合う」ということです。 ホームにいる子は皆厳しく貧しい環境から来た子ばかりですから、生活に対する不安を解消して安心感を持たせることは大切ですが、我慢を知らない子は自分の物ばかりではなく人の物もほしがります。 そして誰よりも早く誰よりも沢山ほしがります。
これは貧しいということばかりではなく、物を所有するには当然のやり方であるという風習のような感じがします。ベンガル州に住んでいる人達はとても自己主張が強いです。 「あの人よりも自分の方が優れている。だから自分の報酬が多いのは当たり前!」 という姿を良く見かけます。
これは地域的な問題なのか、歴史的な問題なのかは定かではありませんが、平和で安心して暮らすスタイルだとは思えません。ですからホームにいる子達には、小さいうちに「我慢すること」を覚えてもらって、大きい子には「分かち合うこと」と「助け合うこと」がとても大切だということを学んでほしいと思っています。
私が小学生の頃は道徳の時間がありました。(今もあるでしょうが) 1週間に1時間か2時間くらいだったと思います。 いずれこれは教育現場だけではなく、大人数で暮らしている今のホームで日常的な生活の中で体験して学べることだと思いますので、そのための環境作りもしていきたいと思っています。
私自身がそのような生活習慣を身につけないといけないことですが。
[インドにあるNPO法人レインボーホーム(孤児の家)駐在員]
●いつもメールをありがとうございます。 いろいろなイベントに、いつかは行けるのでしょうか。 まあ、いつかは行けるようになるでしょう。
下の子が生まれてから、どうも上の子を怒ってばかりのような気がして、どうしてだろう、と。
理由はさておき、「このままではよくない感じ」がすごくして、怒る(今のわたしは「叱る」というより「怒る」)とき、子供の顔を心の中まで覗き込むような気持ちでじ~~っと見るようにしたら、喉まで出かかっていた暴言や、イライラが、スーッと消えてしまうことに気づきました。
口ではいっちょまえなことを言って、反発したり、めちゃくちゃなこと言ったりしてても、なんとまあ、罪のない顔をして言ってることか・・・
時にはプーッと吹き出してしまうこともあります。
今までのわたしは、子供を叱るとき、「見てるようでも見てない」というか、ひどいときは「チラッ」「チラッ」としか見てなかったりとか。
不思議なことに、「じ~っと見ながら言う」ようにしたら、子供も言うことを聞いてくれるようになったのです。
今まで、一日の中で「叱る言葉」ばかり多くて、疲れきっていたのですが、それがグンと減って、子供との会話を楽しめるようになりました。 (でも、一日の終わりにはグッタリですが・・・)
これまで我慢してくれた子供には、すまない気持ちと、感謝の気持ちと尊敬の気持ちで一杯です。(K)
「心の中をのぞき込むという、その辺の微妙なところをいつかもう少し話を聞きたいなと思いました。」
ひえっ、ひえっ。それはですねえ。 「心の中まで覗き込むような気持ち」で、です。 なんとなく、自分の瞳孔が開いているような感覚もあります。
人間って、興味のあるものを見ると瞳孔が開くそうですね。もっと見ようとして。
すっかりわたしは調子にのってしまっていますが、なんでしたら、今度遊びに行こうかな。わたしたちはヒマなので、いつでもいいですよ。 それではよろしくお願いします。(K)
嬉しいですねえ、こういうお便り!でも同時に、私自身の子育て真っ最中だった頃を思い出して、複雑な気持ちにもなります。私はKさんのように余裕をもって子どもに接していただろうかと振り返ると、当時は子どもをせかしたり思い通りに動かそうとしていたなあと、子どもにすまない気持ちと、残念な気持ちが出てきます。残念なのは、豊かな子どもとの日々のふれあいを十分味わって育てられなかったことに対してです。
Kさんのお子さんがじっとママが気づくのを待ってくれていたように、子どもはみんな、その可能性をいっぱいに示して、毎日おとなの接触を待っているにちがいありません。子どものそんな生命の核みたいなものにふれたとき、おとなもそこから生きる元気や望みを与えられていくような気がします。
子どもに日々接する機会の多いおとな(親など)は、そうした子どものエネルギーに直接ふれることができるチャンスをいっぱいもらっていることになります。ぜひ子どもの目の中を覗き込むような気持ちで見てあげてくださいね。きっと親にとっても、思い出に残るかけがえのない体験を味わうことができるでしょう。 そうした“うれしい発見のお便り”、待っています。(大本)
● 毎回、毎回、みなさんとお会いしてお話しているうちに、子供との距離(子供からどのくらいの距離に今立っているのかな?)を客観的に見られるようになった気がいたします。 この頃、夫は「忙しくなければ子育て勉強会にいけるのになあ」とつぶやく回数が増えました。 (S)
私は昨年4月より、玉川大学通信教育で学んでいる。 この冬のスクーリングで、視聴覚教育メディア論を受講した。友人の話を総合すると提出したレポートは、ことごとく「D」で返される怖い科目である。1日に4時限×3日間のスクーリングにびくびくしていた。 ところが、いざ教室に入ってこられた先生は、年配で、少々ヌケたような風貌だった。その上、体力がないので、授業を10分早く切り上げると話されるものだから不安になった。そして、授業が始まった。
先生をなめて、初めざわついていた。それが1時限目が終わる頃には、誰一人としてお喋りをする者がおらず、先生に釘づけなのだ。「これは何かの間違いでしょ?!」 と思いながら、2時限目、3時限目、4時限目、1日が終わった。 クラシック音楽を聴き終えたときのように心地よかった。 久しぶりに授業の展開の上手な教師に当たり「1万7千円はおしくない!」と思った。道草を食っているようで、すべてがどこかで授業とつながっていて、頭の中にスーッと入ってくる授業だった。頑張らなくても理解できる授業だから、とにかくおもしろい。興味深い話に、一秒たりとも聞きもらしたくない!と強く思った。
先生が「僕にもわからないことはあるんだよ。」とおっしゃるたびに、肩の力が抜けた。「味わい深い話でしょう。」と締めくくるたびに、言葉を支えているリアリティを感じて、共感できた。 最後の授業が終わったとき、「もっとこの先生から学びたい。」と悲しくて涙が出そうになった。 貴重な3日間のスクーリングだった。しかし、テストは難しかった....