PAST ACTIVITY
先日、仕事で茨城(鹿島郡大洋村)に行きました。最寄り駅からは上り・下りどちらを利用してもそれほど所用時間に差はなかったので、混雑を避けて下り電車を利用することにしました。 そうしたところ、感覚的にふだんとちょっと違った感じの、面白い一日を体験することができました。
まず、最寄り駅を6時半に出発。上り電車はそろそろ混雑し始めており、行き交う人のせわしなさと緊張感は、これから始まる朝の通勤ラッシュを予感させます。 一方、私の乗った下り電車は、心なしか余裕のある雰囲気。座ると、隣りの女子高校生達のくったくのないおしゃべりが耳に入ってきました。
「手袋がないと指がちぢこまっちゃうね」「でもはめてるとメールできないよ」「(指)無しの(手袋)だといいよ。」「あんまりあったかくないけどね。」 「変な目で見られるし。」「うん、かっこわる!」「でもないといらんな~い。」… (混雑した車内では、ときに耳障りに感じられるオシャベリが、ほほえましく聞こえるから人間って勝手なものです。)
そのうち登校時間を過ぎ、高校生達の乗り降りがなくなると、車内は何となく寒々と感じられてきました。心なしか暖房もあまりきいていないような。 電車を乗り継ぎ、2時間余り。この間、どの電車もゆったり座れたのは幸いでした。
さて水戸では鹿嶋線に乗り換えます。乗り換え口に切符売り場はなく、替わりに改札係が切符を発行してくれます。駅員に行き先を確認すると、「その駅なら先頭車両に乗るように」と言われました。大洋駅では先頭車両しかドアが開かないのだそうです。 (こういうのもふだん経験しない面白さ。)
出発までの時間、電車に座ってぼんやり外を眺めていると、引き込み線に停まった回送電車の横腹に「国民年金を納めましょう。!」のデカデカとした広文字。(東京近辺では見かけない看板。)
やがて一両に10人ほどの乗客を乗せて発車。朝日の中でもあちこちに残る雪が、外気の冷たさを物語っています。そうこうするうちに電車は下車駅へ。 この日私は、ワークショップを依頼され、担当の人と駅で待ち合わせの約束でした。しかしお互い一面識もなく、わかるかどうか心配したのですが、…まったくその心配はありませんでした。 約束の電車で下車したのは私一人だけだったのですから。(ちなみに乗車た人もゼロ。)駅はプラットフォームと階段だけというシンプルさ。駅前の混雑を予想した私は拍子抜け。担当の若い女性(Kさん)と、笑顔で挨拶。「今日一よろしくお願いします」
会場には、すでに集まった参加者の、和やかで、率直で意欲に満ちた温かい雰囲気が溢れていました。そんな良い雰囲気にも助けられ、午後いっぱいかけて、楽しく実りの多いワークショップをおこなうことができました。
さて、ほぼ時間通りに終了。私が演台の上のレジュメや教材を片づけ始めると、ほぼ同時にKさんが駆け寄ってきて、「急げば電車に間に合います!」。 「エッ?は、はい!」スタッフの方々への挨拶もそこそこに、あわててKさんの車に乗り込む。聞けば、これを逃すと一時間くらい電車がないとか。(ふ~、あぶなかったあ。)
帰路もおかげでゆったり座って帰って来ることができました。一日移動してみて、日本の人口密度が一気に減ってしまったかのような錯覚を覚えました。同時に、自分の中に、気持ちのゆとりのようなものがあることにも気がつきました。 その「土地」や「人」の持つ空気のおかげだと思いました。ちょっとした新鮮な経験でした。
ところが、そんな「錯覚」も「新鮮な体験」もつかの間、最寄り駅に帰り着いた途端、首都圏への通勤者の帰宅時間と重なったこともあって、下り電車の到着とともに、ホームにはドッと溢れんばかりの人、人、人。おまけに皆、歩く速度が速い。「ああ、これがいつもの私を取り巻く生活のペースなのだ」と、急に現実の世界に引き戻されたような感覚を覚えました。
埼玉の通勤者の9割は東京方面への通勤と言いますから、反対方向へ動いてみると、まるで違った風景が見え、雰囲気が感じられるのは当然かもしれません。そのことを頭では予想できても、こんなにも空間の感じ方が違って感じられるということを、実際自分で体験してみて初めて、実感としてわかりました。
上り電車に乗るか、下り電車に乗るかによって、体感される世界がずいぶん違ってくるとしたら、それが毎日のことともなれば、ものの見方や考え方もきっと変わってくることでしょう。 狭い日本の中でさえこうなのですから、一歩海外に出たら、人の感じ方や考え方はまさに千差万別で当たり前ですね。
また、どこにもその土地ならではの良さがあることも改めて感じました。 「うちらの所が一番さ」とお国自慢をしつつも、「これが一番、これでなくてはいない」となるのではなく、「でも、君の所もいいね」と認めつつ、それぞれの良さを楽しめたら、いいなあ。(そうしたら、戦争なんかなくなるのにね。)
その土地土地の空気を感じて、直接人に触れること。 メールや手紙のやりとりもいいけれど、直接人と言葉を交わし、体験を共有すること。今年はそんな出会いも意識していきたいと、年明けから一ヶ月が過ぎようとしている今、思っているところです。
私は去年の11月、日本に一時帰国していました。 帰ってからすぐにセレニティにお伺いして、大本さんの美味しい手作りの和食をご馳走になりました。その時はシンちゃん(向坊慎祐さん)夫婦も一緒で、インドの話や日本の話など、楽しい時間を過ごす事ができました。有り難うございまた。
日本に滞在していた時、インドでは手に入りにくい小説やHow to 本など買いあさっていましたが、とても素晴らしいお祈りのCDが付録に付いている本を見つけました。 《「イーグルに訊け」飛鳥新社 天外伺朗・衛藤信之共著》という本です。 アメリカ・インディアンの癒しのセレモニーやお祈りの事、治療の事など書かれいますが、付録についているお祈りのCDは、マリリン・ヤングバードという、インディアンの智慧を絶やさずに後生に伝えていこうとする女性のお祈りです。
私はこのお祈りのCDはインドに帰ってから聞いたのですが、お祈りが始まってからすぐに感動で涙が溢れてきました。 お祈りはインディアンの言葉が少しでほとんどは英語でした。これはアメリカ背府からインディアンの言葉を使う事を禁止されているため、全てインディアンの言葉で祈る事が出来ない為だそうです。 それでも英語だとある程度は分かりますから、何を祈っているのかはだいたい理解できました。
感謝のお祈りです。感謝から始まり、感謝で終わる15分くらいのお祈りです。 その感謝は、おじいさんやおばあさん、自然の智慧を伝えてくれた先祖に対る感謝、自然の神様に対する感謝でした。 先祖、神様の前に立ち、東西南北に向かってお祈りします。
お祈りの始めは、こんなふうに始まります。 ( トゥンカシュラ/ 神様、おじいさん,イーナ/ お母さん,.ウチ : おばあさん )
おじいさん、トゥンカシュラ。イーナ、ウチ。おかあさん、おばあさん。 私の祈りを聞いて下さい。 感謝の気持ちを込めて祈ります。ピラミア。今日の素晴らしい日にピラミア。 あなたの前に立ち、西に向かって、私の祈りを捧げます。 私に贈ってくださったすべての贈り物に感謝します。恐れの気持ちから逃れに、それに立ち向かうことができたことを感謝します。気づきに感謝します。 そのおかげで、恐れを見つめ、受け入れ、受けとめることができました。そして、 そこから必要な知識を学ぶことができました。怒りと自己不信と嫉妬の気持を理解させてくださることに感謝します。おじいちゃんたち、おばあちゃんたは、皆、私に素晴らしいことを教えてくださいました。
私の祈りをきいてください。ピラミア(ありがとう)。偉大なる贈り物にピラミア。 おかげで、人生をまったく違った見方で見ることができます。そして、自分が誰なのかをより深く知るようになり、人生をはっきり見つめることができます。 そのおかげで、私の生き方を変えることができ、より聖なる道を歩むことがきるのです。
(上記CDより引用。英語による祈り/お祈りをした人:マリリン・ヤングバード)
これは英語で祈られているのですが、私の気持ちはすぐに同調すると同時に感動で胸が熱くなりました。 『何て素晴らしい祈りだ……こんな素晴らしい祈りに出逢えて、本当有り難い!』と感謝の気持ちが溢れて、涙が流れだしました。 そして私が生まれてきた目的は、感謝を学ぶ事だという事に気が付きました。 感謝は素晴らしく、多くのものと繋がることのできるとても素晴らしいエネギーだと気づきました。 自然との繋がり、人との繋がり、全ては感謝によって繋がり、感謝によって受け取る事が出来る。
マザーテレサも、「最も貧しい人に仕えることに感謝してボランティアをし下さい。それが神様の贈り物だと思って感謝して下さい。」というような事をボランティアの人達に言っていたみたいです。
もしかすると、感謝するという事と愛するという事は同じことなのではないか? とも考えています。 私にとってこのお祈りは、新年にあたって神様から与えられた贈り物だと思いますが、この恵みは私一人のものにせず、毎朝31人の子ども達と一緒にこのCDを聞いてから、お祈りをして1日を始めています。
もし興味がありましたら、是非この本を買ってお祈りを聞いてみて下さい。 本の後ろの方には英文と日本語訳が載っています。 多くの人達が、感謝の気持ちを込めて恵みを分かち合える日が来ます事を祈ると共に、これに気づかせて下さったことに心から感謝いたします。
(カルカッタにある日本のNPO法人「レインボーホーム」(孤児の家)駐在員)
*「ネイティブ・アメリカン(先住アメリカ人)」との呼称が一般的であるが、最近ではむしろ、本人達が誇りを持って「インディアン」または「アメリカン・インディアン」と呼ぶようになってきた。 (編集注)
♪♪ ♪ 人は生まれて、生き、川は流れて、海に注ぐ…
柔らかな女性の声で、シンプルで緩やかな音楽が流れてくる。口ずさみならリズムに身を任せていると、自然に心もからだも解放されていく。ゆっくりと時間が流れていく。
その一方で、「怒りと悲しみ(今回の瞑想会のテーマ)」という、日頃、目を背けがちなテーマに、率直に、 穏やかな気持ちで向き合うことができた。自分の心やからだのこわばり、人と自然とのつながりに改めて気づかされる。
ちょうど、窓を開けて時々部屋の空気を入れ換えるように、私たちの日常も新鮮な空気を通すことが必要だと痛感した。
<この日見つけたことば>
★怒りと悲しみは同じ一つのことの両端。 例えば、左右の形の違う物があるとする。これはどちらの側を見るかで見方はまるで違うけれど、それは見え方が違うだけで実は同じもの。怒りと悲しみもこれと同じ。
★表わされなかったエネルギーは、怒りになって残る。怒りの基になった事は消せないけれど、その時にため込んだエネルギー(怒り)は、時を経てからでも解放してあげることで、何度も繰り返さずにすむ。 「事実」が私たちを苦しめているのではなく、「事実」のあったその時に解放されなかったエネルギーが後々まで私たちを苦しめているからだ。 そして、怒りを閉じこめておくと、他の生き生きとしたエネルギーもふさがれしまう。だから怒りのエネルギーを解放してあげよう。例えば怒りが湧いてきたら歩くのでも良い。
★歩くことはそれだけで素晴らしい。現代人はすぐにいろいろなものをくっつけたがる(目的や意味を持たせたがる)けれど、歩くと言うことはもうそれだけで完璧なこと。 ただ歩けばいい。ただ走ればいい。
そういえば、登山家の田部井淳子さんが、ある所に次のようなことを書いていた。 「自分は運動は苦手だったが、ある時、山に登る機会があり、やっとのこと頂上に着いたとき、自分が登ってきたことで今ここに立っていると思うと、自にもできるんだと思った。自分が歩いたからこそ、今こんな高い山の頂上にいるんだ。その体験が自分が登山家になった原点だ。」と。足を交互に動かすいう一歩一歩の動作が、何千メートルの山に自分を運んでくれる。歩くことは晴らしいこと。歩けることに感謝したい。(瞑想会のまとめ・R)
※セレニティの瞑想会(講師:Soham…オーシャン主宰)はほぼ隔月開催。
いま、僕のクラスは、とってもいい雰囲気です。平井先生の学級通信の書き方なども参考にして、お母さん方に喜ばれています。自分自身、毎日、学校が楽しく、ようやく教師ってすばらしいなあと思えるようになりました。 子どもとうまく付き合えているので、親も一応は喜んでくれているようです。 個人面談も今日で無事終わり、また元気が出てきました。
*A先生は学生時代から熱心に研修会に参加するなど、意欲的で力のある先生です。それに、温かくて子どもが大好き。そんな彼が、先生になった途端、 次々と出てくる難題(こんなことまで教師の仕事なの?と言うような課題も)に追われて悪戦苦闘していました。秋になってこのファクスが届いたときは、私もホッとしました。よかった!よかった!(O)