PAST ACTIVITY
いきなり暗い出だしですみません。
昨年の一時期、落ち込んで力の出ない時がありました。中東で日本人青年が犠牲になった痛ましい事件の頃でした。同世代の息子を持つ親として他人事とは思えませんでした。自分の今までの願いや希望、母親としての努力、それらが根底からくつがえされる思いがして、重い気分と自分への苛立ちや無力感から元気が出てこなかったのです。
でも、そのことがキッカケで、友人達との会話やメールのやりとりを通じて、いろいろな示唆をもらい、振り返る機会も持たせてもらいました。勇気を与えられる言葉にも出会うことができました。「女性達の協力が流れの変化のカギになると思うのですが、何かヒントを。」みたいな難しい質問でご迷惑もかけました。それに対して、友人の一人が次のようなメールをくれました。
「ウチの長男がいい事を言っていました。
おばあちゃんと話していると、おじいちゃんが寄ってくる。するとオバサンが寄ってくる。すると子供が寄ってくる。若いお姉ちゃんも寄ってくる。すると最後に男達がやってくる。
これはすごく重要な組織論だと思いました。ウチの長男は、ご承知のように、中国で、ハンセン病の支援ネットワークを作っていますが、これは彼が実地で学んだことだと思います。私にも及ばぬことです。」
灰色の中にぽーっと光がともったように感じました。私はこの息子さんの言われた言葉を大切に胸にしまいました。そしてほどなく、この言葉の重みと効果を直接体験するできごとに出会うこととなったのです。
年明けのある集会で、数年ぶりに一人の女性にお会いしました。仮にAさんとしておきます。Aさんは元中学教師。定年退職されて数年経ちます。ボランティアでこちらの活動を手伝ってくださったこともありますが、この2年ほどお会いしていませんでした。その席で挨拶もそこそこに、Aさんは私にこんなことを言われたのです。
「頂いたお手紙に書いてあった言葉、とってもよかったですねえ!」
嬉しそうに話されるAさんの言葉が一瞬何を指してのことなのかわからず、私が返事に戸惑っていると、
「おばあさんが話していると、おじいさんがやってきて…と、書いてくださいましたよねえ。よかったですよ!」
Aさんの眼鏡の奧の眼差しがいっそう優しく笑って、こう続けられました。
「ええ、とてもねえ、ホントによかったですよ。私たち、こういう時代だけど何をしたらいいのかって、ときどき仲間で話してるんですが…。
徴兵制だなんだって…。じゃあ、あなたは何をするの?と言われて私、答えられなかったんです。
でも、あの言葉を読んでから、そうか私にもやれることがある、と思ったんですね。本当にありがとうございました。…」
Aさんは一息にそう言われると、本当に嬉しそうに何度も何度も感謝の言葉を述べられました。
年末に私は、あることのお礼にAさん宛の礼状を書きましたが、その中にAさんご自身の活躍を応援する気持ちを込めて、先の息子さんの言葉を伝えたのです。私自身は何気なく連帯の気持ちを込めて書いたつもりでしたが、それがこんなに大きな共感を持って受け入れられたことに、驚くと同時に私自身が励まされ、嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
私は改めて、友人の息子さんが実地に学んだ言葉の重みを知ることとなりました。人は何によって希望を得ることができるのか、人から人へ確かに伝わるものの本質とは何か、人とつながる喜びを実感するとはどういうことか。ほかにもいろんなことを教わったような気がします。
おばあちゃん→おじいちゃん→おばさん→子ども→若いお姉さん→男達…
一歩一歩、楽しく、「ゆっくり、急ごう」!
そんな気持ちで、今年もいろいろなことにとりくんでいきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
●卒業生からの年賀
(E.40代女性)
「久しぶりです。昨年はご迷惑おかけしました。本当に申し訳なかったと今更思います。今は、しっかり学校も行って成績優秀です!!(笑)・・・・・中略・・昨年はいろいろな人に迷惑をかけながら成長していたと思います。今年もほどほどに迷惑をかけながらがんばります。お世話になった先生方にどうぞよろしくです。」
2年の途中から不登校気味で、3年の後半はほとんど学校に来なかった生徒ですが、卒業に向けて、放課後何回か来るようになり、卒業後はアルバイトをしながら学校もきちんと行っているようです。
この文章で気に入ったのは、「迷惑をかけながら成長していた」というところです。外からは目立って成長しているようには見えなかったけど、自分ではちゃんと成長を感じでいたんだなとうれしくなりました。
教師をしていて何が一番うれしいといって、こういう手紙をもらうほどうれしいことはありません。今年もまたがんばろうという気持ちになりました。
●歌は好きですか?
(レッズサポーターM子40代)
皆さんは、歌が好きですか?
私は、多分好きなんだと思います。どんな歌でもというわけでもありませんし、音程が上手にとれるわけでもありませんが。(*^_^*)
去年の今頃、病気休暇を取っていて、もうすぐ復帰という時期だったと思います。新しく買った車に付いていたMDプレーヤーで、中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」という曲を聴きながら、どっぷり苦しさやつらさ、悲しみに浸っていました。
テレビの番組で、涙は自分自身を癒すことができると、聞いたことを思い出します。心の中で「ジワ~ン」とくるこの気持ちは、決して悪いことではないだろうという想いが、ボンヤリ頭に浮かびます。
冬休み、いつものようにズボラな主婦?をしながらも、さすがに普段よりも時間の余裕があります。オムニバスのCDを借りてきて、しこしことMDに録音する作業だけはマメにしました。
その中の「エール」というCDに、私の好きな役者さんでもある柴田理恵さんの前書きがあったのです。
「エール」は、一方通行じゃなくて必ず自分に返ってくるもという文です。思わず目を引きました。
歌は、人の声はパワーを与えてくれる。
エール=応援とは、送る側も送られる側にも力を与えてくれる。
一方通行じゃなくて必ず自分に返ってくるもだから、”応”援なんだ(と思うと書いてあります。)
そうやって、あらためて、彼女も好きな曲、中島みゆきの「ファイト」という曲の歌詞を読み直してみると、中島みゆきの感性の凄さに、またびっくりしました。
この冬休み、歌の良さをあらためて感じたり、エールという言葉の意味を考えさせられたり、ちょっぴり心が豊かになったような気がします。
皆さんも、歌でもいいでしょうし、他の自分が好きになれる事で自分自身にエールを送ってみてください。少しでも、元気が出るといいな。
●去年は祖母の死が私に大きな成長をもたらしてくれました。素直になる事や人が生きる事の大きさ、現実に向き合う勇気等々。一番自分に近い存在だっただけに反発し、接触を絶っていた彼女の臨終で初めてどれだけ彼女を大切に思っていたかに気付かされ、それを伝える事ができて、長年自分を縛っていた物から解放され、自分らしく生きる力を貰いました。
(H.M30代女)
●昨年は無理を言って、部活の監督をおろしてもらいました。時間的、精神的、経済的にも余裕ができ、去年もいろいろあったが、充実していました。夏休み、一人だったのが気にいらないが、群馬の温泉を旅しました。お金もやっと100万円貯まりました。また、いろいろなことに生徒と一緒に挑戦して、いくつか資格も取りました。11月末のトーイックも785点取れました。あとは嫁です。(M.K・20代)
●去年3月に結婚し、6月上旬から住宅のプランに取りかかり、10月下旬に入居しました。やはり人生で3軒の家を建てると良いと聞きますが、実際そうだと思いました。住宅に色々な不満もありますが、家を持てたことに感謝しています。有り難うございました。
(Y.K・40代)
11月7日、落ち葉も色づき始め昼寝をしたくなるような日差しのなか私は友人と二人東武東上線にのった。セレ二ティ主催の音祭りの手伝いをするためだ。
電車を乗り継ぎ、一時間半。私たちは会場に到着し、いわれていたとおりモギリの手伝いをやり始めた。モギリの仕事は忙しいのは初めだけで、開場から四十分もしたら大体のお客さんが入り暇になった。
途中からくるお客さんもいるので、受付にすわっていると、ロビーのスピーカーからステージで演奏されているギターの音色が聞こえてきた。
はじめのうちはあまり気にせず聴いていたのだが、なぜか次第に体でリズムを取り始めとても楽しくなってきた。理由もなにもない、ただ私は楽しくなってきた。
私は友人に受付を頼みステージを見に行った…
私は、今大学に通っている。毎日、アパートと大学の往復である。気がつくとしゃべるのを、下手をすると自分の声があることすら忘れる時がある。毎日がつまらないわけではない、ただ物足りない。
私は今まで「楽しい」=「やりがい」だとおもっていた。だからやりがいのある仕事につくために、毎日地道に努力しつづけるのは仕方のないことだ。
しかし「楽しい」とは「やりがい」だけではない。
あの日、私がステージで見たものはお客さんと溶け合い楽しそうに、演奏し、歌い、踊る出演者のひとたちだった。そこには飾られた言葉はなくただ心に直接響いてくる力があった。
「楽しい」というものは何だろう?
バカなことを聞くとあなたは思うかもしれない。しかし、それがどんなものかわかっているにもかかわらず感じられない人がたくさんいる。
楽しいということ、それには理由なんてなくただそこにあるだけだ。
そして、それは決してひとつではなく無限にある。
今、小さな私に無限の宇宙がみえる。私はこれからも、無限の宇宙を探検しつづけいろんな宝物を発見していきたい。
去年9月に日本に帰ってきてから初めての投稿になります。
帰国してから半年になろうとしていますが、この半年の間にもいろいろ考えさせられました。
とはいえ帰ってから無職ですから、職探しが重要課題でした。
職安に10回くらい行きましたが、これといって労働意欲をかきたてられるような職種はみつかりませんでした。
それで簡単に『肉体労働はきついから、デスクワークになるような職をさがそう!』と思い事務職の面接を受けたりしました。
しかしこれまでの職歴を踏まえてみれば、ほとんどが営業であり、キャリアといえるのは建築だけでした。そして40歳で独身。しかもインドに4年間滞在して帰国したばかり、といえば面接官にとっても『得体の知れない奴』と受け取られていたようです。
当然のごとく「今回はまことに残念ですが……」と不採用の返事が4件続きました。
これが続きながらも、『そのうちなんとかなるさ』と心の中はやけに呑気でした。
厳しい世の中を舐めていたわけではありません。貯金も沢山あったわけではありませんし、誰かの世話になろうと思っていたわけでもありません。ただ私の願いに繋がる道は見つかるはずだ、という確信が心の奥底にありました。
職探しの合間は、よく図書館に行ったり散歩をしたりしていましたが、偶然の出会いが頻繁にありました。
道を歩いているといきなり目の前に車が止まって
「おー!池田じゃねえかあ!」
と昔の会社の上司と会ったり、
電車に乗ったら
「うわ~!い…い…イケちゃん?」
と大学の時の同級生。
スーパーにいくと
「なんだよ池田じゃねえか?」と昔の会社の同僚と、立て続けに昔の知り合いに偶然会いました。
それでインドから帰ってきたことを言って、そして職探しに苦労しているような話をしましたが、それを聞いた知り合いからは異口同音に
「それで?池田は何をしたいの?」
と聞かれました。
私がしたいことと言えば《分かち合いのコミュニティ》を創りたい、という事です。
で何を分かち合うかと言ったら《神とひとつ》という体験を分かち合いたいです。
でもこんな事を言ったらオウムのようにカルトに洗脳されたんじゃないか?と思われるのがオチですから、あまりうまく言葉にすることはできません。
ですから「健康と幸福を分かち合うコミュニティを創りたい」と言うことにしています
。
するとこれまた異口同音に
「池田は会社やった方が良いよ。雇われるより経営した方が上手くいくと思うよ」と言われました。無職生活が続いて2ヶ月くらい過ぎた頃です。
そうは言われてもあまりピンときていませんでした。
私の心の中には、根強くホームに残してきた子供達が息づいていました。
ビクラムのお腹の具合はどうだろうか?
ラジューやシバはちゃんと囲碁をしてるだろうか?
プリアンカとルパリは仲良くしてるだろうか?
マラは?
アンジャリーは?
ビジェータは?
サンジュは?
……………
と33人の子供達が、愛らしく元気であることを願う子供達が、私の胸の中に熱い愛情を掻き立ててくれていました。
それは今も同じです。
マザーテレサは
「痛みを感じるほど愛して下さい」
とボランティアやシスターに言っていたそうですが、その意味することがやっと分かったように思います。
私は子供達と離れてしましましたが、離れることによってあの子達に対する愛情が、前にも増して強くなったようです。
『私が何をするにしても愛するもの達の為に』と思っています。
愛するもの達のためなら、命がけでやっても悔いはない。むしろ愛するもの達の為になることを何もしない方が、愛に渇いて心が苦しくなる。
私は子供達に、助け合い、分かち合うことは大切だと教えてきました。
お祈りすること。瞑想することは大切だと教えてきました。
だから子供達に教えた通りの生き方を貫いていこうと思っています。
またいつか子供達に出会った時に、池田アンクルはちゃんと助け合い、分かち合って生きてきたという証になる姿を見せたい、と思っています。
私は今、岩手のサッシの製造工場の作業員として働いています。派遣ですが。
副業として健康食品の販売を始めようとしているところです。
いずれ分かち合いのできるコミュニティを始めるつもりですが、焦らず、自分の内側にある愛の息吹を感じながら、日々の精進を重ねていきたいと思っています。
(元NPO法人「レインボーホーム」(孤児の家)カルカッタ駐在員)