PAST ACTIVITY
何気なくつけたテレビの番組で、作務衣を着た男性が、お寺の庭のような所でインタビューを受けていました。作務衣がとてもしっくりとなじんだ白髪まじりの温和な表情、りんとした風情。欧米人の方でした。
日本に長年暮らし、今では禅寺の主となって久しいその方の話を、最初はなんとなく、そのうち引きこまれて最後まで聞いてしまいました。そのお話の中に出てきたのが「荷物は少ない方がよい」という言葉。なぜか妙に印象に残っています。
荷物というと、私など思わず、我が家の押し入れに詰め込まれているそれらを想像してしまいます。もちろん、ここでお坊さんの言われる荷物はそういう意味ではなく、心の荷物というか、内面的な意味での「荷物」のことをいっているのだとはわかりますけれど…。それでもやっぱり、心の荷物と押し入れの荷物とはまったく無関係ではなさそうな気がしてしまうのです。
押し入れにしまいこんでいる荷物の中には、今となっては必要ないのに何となく捨てられないままにとってあるだけという物が少なくありません。そんな「荷物」のあれやこれや…整理できたらスッキリするでしょうね。そうしたら心の中もスッキリ、というのはありそうです。
ため込んだ荷物を整理すると、新しい世界が見えてくる?
というわけで、ときどき思いついては、たまった物を整理しているつもりなんですが…。それでもいつの間にか荷物が増える。
『荷物は少ない方がよい。』
押し入れの中も心の中も、荷物を減らすのはけっこう勇気がいるもののようです。
(セレニティ・カウンセリングルーム代表)
●昨年1年間、子供の小学校のクラス役員、つまりPTA役員を務めました。各クラス30名程度の生徒数で3クラス、各クラスの役員さんは役割分担で毎年8名という枠ですので、6年間のうち2、3回やらなければなりません。当初は、全く興味もやる気もありませんでした。しかしながら、昨年は仕事もさほど忙しくないこともあって役員に手をあげ、そして、4月の先生方の歓送迎会をもって無事終了しました。
ほとんど面識もないお母さん方と研修旅行や文化祭のバザ-等の行事をこなし、気疲れでくたくたになった記憶しかありませんが、なぜか、あたたかな言葉をかけてくれた高学年のお母さん、全校生徒に配る書類を黙々と一緒に横で折ってくれたお母さん方を思い出します。
PTA不要論も聞かれますが、子供が世話になっているのだからという大前提の基、ない知恵をしぼって親同士で活動し、学校運営を支えることも悪くないかなと感じています。 (K.S)
●新学期が始まり、少人数、事情あり家庭の多いうちの小学校ではPTAの役員の順番がすぐに回ってきて、今年は広報委員になったんですが、またまた委員長になるはめに-_-)
そして、私が役を受ける時は、学生時代から何故か「例年通り」にはいかない事が多く、またまた一人でやる事が多く、またまた萎え萎えッス。
うちの子の一年、二年の担任で、途中で窓際に追いやられてしまって個人的に相談とかされた先生は区外に異動させられてしまいました。
で、広報委員なんでPTA新聞を作ったり配ったりするんですが、例年は異動の先生の挨拶の記事を入れるのが、今年はカットされ、異動した先生には一年間は新聞を送ることになっていたのも今年から取り止めって上からの指示が、一応の当たり障りの無い理由とともに出されてんの。
なんとなく嫌~な感じです。
窓際先生が在籍してた時も、上はクラス便りとか見せてるしクラスの様子も伝えてるって言ってたけど、先生ご本人から聞いたところでは、一切情報を貰えず、生徒にも近づくな、と言われてたそうで。
子供たちは先生が大好きで、早くまたクラスに戻ってきて欲しいって言ってたんだけど…。
新しい学校で先生が生き生きしてくれる事を祈るしかないけど、組織ってなんかやーねー。 ( 弘子 )
●初任研のころは今が一番大変と思いましたが
「本当の大変さ」は経験を積めば積むほど
増してくるものなのですね。
異動して6年目の立場
「この人は、何がどこまでできるのだろう」
そんなふうに見られるのは疲れます。
今まで自分の職場に異動されてきた方々が
とても大変な思いをしながら
職場に慣れていったのだなあと知りました。
こんな中でもラッキーなことがあります。
学年を一緒に組んでいる方(4クラス)が
とても優しく、思いやりのある方達です。
学年の人間関係が一番大きいですから。
学年主任さんの言葉が優しいです。
「楽しさはみんなで4倍に、
苦しいことやつらいことは、みんなで四分の一に
していきましょうね。」
もう一人のベテランの方は、細かな所までの配慮が
行き届いている方です。そして、気付いたことでその都度
よく褒めてくださいます。「今の指示の出し方よかったわ!」
もう一人は3年目の男性です。
頑張りやさんで、前向きです。戸惑って色々聞く私に、
いつも親切に答えてくれます。
前の職場では、立場としては
初めて主任さんになった人を支え、初任者~3年目までの人に教える
という組み合わせが多かったのですが、
今の職場では、ベテランに見守られて指導をいただけることが
楽しみです。(プチトマト)
こんにちは!今回で二度目の投稿になりますEDACです。
みなさん聞いてください(ん、読んでくださいかな?)私は今某有名進学塾で塾講師のバイトをしているのですが、この前の土曜日に小学生のテスト監督をしたんです。
いつもの手順どおり問題を配りその場で回答と解説をしたのですが、その後に驚くべき光景が目に飛び込んできました!!
生徒の中に数人泣いている子がいたのです。
心配になってわけを聞いてみるとどうやらテストの点数がわるく悔しくて泣いていたのです。
感情がこんなに素直に出せる子供がうらやましく思えました。
そこで考えたのですが…
最近、不思議に思うことがあります。それは“人って何で怒るんだろ?”
いや、怒りたいから怒るんだろうといえばそうなんですが。“怒る”についてちょっと自分なりに考えを深めてみました(笑)まずは、自分のこころや他人の怒ったときの原因をよく観察してみる…仕事がうまくいかなくなると怒る…自分の意見が通らなくて怒る…疲れていて理由もなく怒る…こんなふうに見てみると自分っていつも怒ってるってことに気づく。
そしていろいろなパターンを比べて“怒る”という現象にひとつの仮説をたてた。
仮説
<怒るとは、自分の理想と現実のギャップが多くなったときに発生する現象! >
当たり前に思えるのだけど真理はいつも当たり前のようにみえるんです。ニュートンもりんごが落ちたのをみて重力を発見したわけですから。ねっ。
仕事がうまくいかなくて怒るのは自分が思い描いていたスケジュール(理想)が崩れるから怒る。こんな風に怒る仕組みがわかると前よりは客観的に自分がみえてきて怒ることも少なくなってきた。
今度はさらにほかの感情も観察してみる…そうするとこんなことがわかった。
仮説2
<喜ぶとはこころが感情で満たされたときにおこる現象>
<悲しむとは世界がはかないという現実を感じたときにおこる現象>
とまぁ、こんな具合です。人は現実と理想のふたつの夢をいつも見ている気がする。現実ばかりみても夢ばかりみても物事はうまくいかない。いつもふたつの世界を見ていたほうがいいと思う。現実は証明ができないから夢とたいして変わらない気もする。
夢と現実は表裏一体の双子のようにつながっている。
(学生)
今年2月に、名古屋の2人の友人から『力を貸して欲しい』というメールが届きました。ニール・ドナルド・ウォルシュというアメリカ人の男性が書いた《神との対話》という本をご存知でしょうか。
これはホームレス生活や病気、そして数度にわたる離婚の経験を持つ男性が、あまりにも続く生活苦からのストレスに堪忍袋の緒が切れて、神様に対して「いったい俺の何が悪いんだ!!」と文句の手紙を書いたら、「質問に応えましょう」と神様から返事が来たとうくだりで始まる本です。
これは神様とニールの対話形式で書かれた本ですが、数度にわたる対話からいろいろな真実が明かされていく内容です。
そして理不尽な世界情勢の中で、今私達に何が出来るかとニールが思案したところ、全ての生命は愛によって繋がる一つ生命体のであるという事を啓蒙する組織を作ろうと考えました。
それを彼はヒューマニティ・チームと名づけましたが、私に『力を貸して欲しい』と言ってきたのは、そのヒューマニティ・チームを愛知県で運営する人達からでした。
今年に入ってから、名古屋のヒューマニティ・チームの集会に集まる人の人数が12人くらいに増えてきたが、組織としての運営ノウハウや、活動内容にこれと言った企画案が無いために、色々な経験のある私に協力を求めてきたそうです。 ちょうどその頃の私は、モンロー研究所という所が開発したヘミシンクという、左脳と右脳を活性化するCDを使って瞑想のトレーニングをしていました。
初めの頃はあまり期待をしていなかったのですが、名古屋で代理店販売をしている業者をみつけたので試しにやってみようと思い、2枚ほど買って試してみました。
すると驚きです。身体に軽い電気が流れるような感覚を感じてから、後頭部の内側が緩やかに振動を始め、その後振動は脊髄を伝わって両足まで下がって行き、腰から下も振動しはじめました。
しばらくすると振動が収まって五感の全てがオフになり、肉体的感覚がゼロになりました。すると額の中央のあたりから視界が開けたような感覚になり、私の住んでいる地域の上空から町並みの風景が見えるようになりました。
『うわ~……こりゃ体外離脱?…っていうやつか!
………気持ちいいなあ……』
と、浮遊感を楽しんでいたところ、
『あんたがインドにいた頃、私が守ってたんだよ』
という声(思念)が聞こえてきました。
『ん?誰?』
と、その声の方に意識を向けてみると、それは11年前に死んだ私のオバサンでした。
『うわ~オバちゃん!ひさしぶりだねえ。元気だった?』
と、私は再会を喜ぶあまり元気かと聞いていました。
死んだ人に元気かと尋ねるよりは、成仏してるかと聞いた方がいいんでしょうが…。
私の両親は私が小さい頃に離婚し、父方に引き取られていましたので母親はいませんでした。それでそのオバが私達兄弟の母親代わりの人でした。
何はともあれ、再会に喜ぶ私に笑顔でオバサンは、『ちょっとついておいで。』と言って、叔母が住んでいる天国まで案内してくれました。
私は先導するオバサンの後をついて、飛ぶように光の渦やトンネルを抜けて、とても美しい自然に恵まれた世界の上空に浮かんでいました。
その美しい自然美にあふれる世界を満喫していると、オバサンは私に
『あのさ…私は今ここなんだけどね、忍さんは今囚われの世界にいるんだよ。
だから、あんたその囚われの世界の忍さんを連れ戻して来てよ。』と言いました。
忍さんというのは、ちょうど同じ頃に死んだ私の父親の事です。
私はその言葉に促されるように父親に意識を向けたところ、父はまだ自分が死んだ事に気がついていない事が分かりました。
父は癌で死んだのですが、死ぬ時にはモルヒネで痛み止めをうたれて、眠るように死んでいきました。だから病院のベッドに寝ているように、死んだ後もベッドに縛り付けられ、澱んだ世界に囚われていました
『う~んなるほど……分かったよ。
…だけどさ…連れ戻すなんて、そんなやり方…俺知らないよ?……』
と、少し迷っていると
『大丈夫だよ。あんただったらすぐ分かるよ!』
と太鼓判を押されました。
『ああ、そうかもね。……うん分かった!そんじゃそのうちやってみるよ。』
と言って約束をし、私は自分の身体に戻りました。
話は愛知県のヒューマニティ・チームの話にもどります。
4月に主要メンバーの集りに私も参加し、組織運営のあり方について説明しました。
組織を運営するには、目的、計画、実行、反省のサイクルが必要である事。
そして時間やお金、場所や実行内容などの記録を残す必要がある事。
まずは組織の目的を決めるのが第一であると言いました。
そこで、その場で共通の目的を決めました。
それは【真実を伝える、草の根運動】という事になりました。
次に計画ですが、神と対話するのはニールばかりでなく、誰でもそうである事が望ましい。そして、その方法としては瞑想が良いのではないかと意見がまとまり、瞑想サークルを始める事になりました。
それで5月の連休に、試験的に数人でヘミシンクを使った瞑想会をしてみました。
その瞑想会では皆共感し、愛知ヒューマニティ・チームの第一の活動として、瞑想サークルの実施に意欲を抱いていました。
私は自分が瞑想に没頭していたちょうどその頃に、知り合いになったばかりの名古屋の友人から組織活動の協力依頼があった事に、共時性を感じました。
ある意味、需要と供給のサイクルがピッタリ合った事に、何となく感謝の気持ちが湧いてきました。
それから、私は瞑想というのは自分自身との対話でもあるという事と、知覚能力の範囲を広げる事でもあると考えています。
今の世の中、教育問題や育児問題が湧き上がったり、政府や公共施設の信頼性が薄れていますが、これは本来の人間性が喪失しつつある非常事態ではないでしょうか。
そんな中で自分の気持ちを外側に向けると同時に、自分自身の心の内側に向ける必要があり、その方法として瞑想は有効なものでもあると考えています。
私は個人的に、瞑想を通して死んだ叔母や父親の状態を知る事により、自分が眼に見えない世界で守られている事、または眼に見えない世界でも生きている自分の力を必用としている事を理解しました。
これは命の繋がりの広大さを実感できるものでもありました。
そういう感覚で現実世界を見てみると、育児の苦しみや教育現場での苦慮も、他人事とは思えなくなってきました。
そこで私は、そういう感覚から得られたものを分かち合い、育てていくコミュニティの構築に、努力したいと考えるようになってきました。
「今度送るのは今までとちょっと違いますよ。大本さんが読んでみて、 『あれ~こりゃまた池田さん……かなりぶっ飛んだねぇ…』と思うかも知れません。何はともあれ、私の冒険心がまたスイッチオンになりましたので、予めご了承下さい。」
こんなメールが池田さんから届き、楽しみにしていたら、なんとまあエキサイティングな瞑想会!瞑想会といってもいろいろあるんですね。(セレニティの瞑想会は、残念ながら(?)対外離脱は致しません。)何はともあれ、予定調和でないところが人生の醍醐味。次は何が飛び出すのか、冒険心のスイッチオンの続きやいかに?
私宛のお便りやメールも許可をいただき掲載させていただきました。今回レイアウトの関係で原稿を掲載できなかった方、次号ということでごめんなさい
『自分のことは自分が一番よく知っている。』
『自分のことは案外自分にはわかっていないものだ。』
この二つの見方、皆さんはどちらだと思いますか?
二つは、一見正反対のことを言っているように見えますが…。
実は、私はどちらも真実だと思っています。
たとえば、相談に来られた方がご自分のことをこんなふうに言われたとします。
「私、どう見えますか?こんな顔なんで友達に嫌われてもしょうがないんですが…。」
私の受ける印象と、ご本人の言われることがあまりに違ったりします。むしろ端正な整った顔立ちの方なのです。でも、ご本人は非常に否定的なイメージをお持ちだったりするわけです。この場合は『自分のことは案外自分にはわかっていない』あるいは気づいていないという見方が当てはまりそうです。
一方、こんな場合もあります。
職場でのストレスを抱えてカウンセリングにいらした方の場合。
忙しくて休めない、身体の方は限界で、あちこち不具合が起こり始めている。それでも職場では不調を訴えることもなくひたすらがんばっている。
今後この状態が続けば、どう考えても体調の悪化は目に見ています。この状況で身体の出している危険信号に注目してほしいとき、私は次のような内容を伝えることがあります。
廻りはあなたに余裕があると思って仕事を頼んでいるのかも知れません。でも他人にあなたのつらさはわかりません。身体の感覚はあなたしか感じることのできないものです。自分が自分の声に耳を傾けてあげないで、誰がご自分のお世話をするのでしょう?一年365日片時も休むことなく働き続けている心臓、身体の各部分。それらを日頃元気なときは忘れていてもいいけれど、サインが出ているときにはそのサインに注目してあげてください。ご自分の苦労はご自分が一番よく知っているはずですから。
『自分のことは自分が一番わかっているんですよ』
私たちの中には、
私の知らない私もいるし、私しか知らない私もいる。
ほんのちょっとしたキッカケから、思いがけない自分に出会い、見過ごしていた自分に気づく。そこから大きな変化が始まる。カウンセリングを通してそんな機会に立ち会わせていただくたび、人間ってすごいな、って思わずにいられないのです。
(大本)