PAST ACTIVITY
先日、生まれて三日目、という子牛を見る機会があった。まだ生まれて三日なのに、子牛は他の牛たちと一緒に牛舎の中で歩き回ったり、鼻を寄せてきたり…。小さいけれどすっかり「牛」であるのにはビックリした。牛は、三日でこんなに「成長」してしまうのか…。
人間だったら、生まれて三日は、まだまだ生まれたての赤ちゃん。
薄い薄い桃色の皮膚と、柔らかくて頼りない手足。さわると壊れてしまいそう。生まれたての赤ちゃんは、ついさっきまで私たちとは違う世界にいたとしか思えない。それはそう、さっきまで神様のところにいたのだもの、ね。
それが半日、一日と経つうちに、どんどん人間界の存在になっていく。神様の所から、人間の世界に下りてきたんだねー、思わずそんな感じがしてしまう。命の不思議を感じる瞬間だ。
久しぶりに部屋を整理していて、古い育児日誌などが出てきた中に、子ども達の誕生の際の記録があって、思わずじっくり読んでしまった。3人の息子達とのそれぞれの初めての出会い、家族の歴史、その後のいろいろ。すべてをもう一度、たどりなおすかのように、読み返してはどっぷり振り返る日々を送った。正直言うとちょっと苦しかったりしながらね。
「もっとこうすれば良かった」「今だったらきっとこんな風に対応するな」とか思いながら読んだ。接し方が全然まずいかつて私の子育ての記述を読みながら「ソレ違うでしょ!ン、もう、わかってないんだから…」とか、自分で突っ込みを入れていた。
しかしながら、今となってはどれも良い思い出だ。とにかく子ども達よ生まれてくれて、共に生きてくれてありがとう、の心境だ。
新しい命の誕生は文句なく素晴らしい。平和で自由、平等の社会ってきっと、すべての命が祝福されて生まれてくることのできる社会のことなんじゃないかな。
本当は、楽しいことだけ見ていたいし、楽しいことだけ語っていたい。でも、楽しむためには平和でなくっちゃね。難しい政治のことや専門知識がなくても、自分の暮らしに関係することは、「イヤなものはイヤ、いいものはいい」と言っていきたい。
私は平和な社会に住みたいから、そのために自分のできることをしたい。せめて自分の立ち位置をしっかりと知っておきたいとは思う。
そう思うと、今は気になることがいろいろあるなぁ。………
★ 沖縄県名護市辺野古では米軍基地の移設問題で地元の人権を無視した行為が日常的に起こっている。各地の米軍基地でも。これは米兵個人の問題と言うよりも軍隊の持つ性格ゆえだ。本当に私たちが平和な国になるためには軍隊という武力によってでなく、それ以外の手段で外国とつき合うことに本気で取り組まなくてはと思う。 (去年友人のBさんと歩いた辺野古の浜。桟橋で釣り糸を垂れていた親子の姿、のどかな漁村の風景がいつまでもつづきますように!「たんすにジュゴン」(「手織舎すずめ」Bさん達の工房作の草木染め巾着。ネットでお求め頂けます。辺野古の海と平和を守る応援グッズです。)
★ 青森県六ヶ所村の核燃料廃棄物再処理工場で試験運転が始まろうとしている。試験運転と言っても動き出したらたちまち、東北の自然も味覚も放射能で汚染されてしまう。もちろんそこに住む人たちも。そしてその際に出るプルトニウムは核兵器製造に道を開く危険性も持っている。
(子ども達が小さかった頃、チェルノブイリ原発事故が起きた。日本にも放射能が降ってきて、私は知らずに子ども達にほうれん草も食べさせ、牛乳も飲ませた。世界は一つながりだと実感した苦いできごとだった。)
ではあるけれど、いつのときも、なにがあっても、子ども達の放つ生命の光に励まされながら、幸せをいっぱいいっぱい見つけていきたいと思う!
楽しいことも企画していきますよ。応援してくださいねー!
●信頼関係ってなんだろう。
感覚的にわかったのは最近。
修士論文でめぐり合った指導教官の先生は本当に素敵な男性です☆
携帯にメールで悩みを送っても誠実に返して下さるハートフルな先生。
締め切り間際にはとてつもなく長い時間、指導に時間を割いて下さいました。
それでもどことなく感じてしまう不信感。
あきらめそうになったり、めげそうになったりしながらも、最後まであきらめないで一生懸命に取り組むことを教えてくれた☆
不信感は大事なことをメールで済ませてしまっていたことからくるものでした。
無償の愛を感じたので、これからは大切なことはアポイントメントをとって話すことを約束しました。
そうしたら、心が晴れ晴れして、以前よりももっと先生のことが大好きになった
☆☆☆
自分を磨きながら、人のために生きたいと強く願うミッキーからのメッセージでした♪
(20代・女性)
●今日、うちのK(お子さんの名前)が学校から帰ってくるなり、「大、大ニュ-ス!!!クラスの女の子から手紙(ラブレタ-)をもらったよ」と紙切れを私にぐっと出しました。そして、「バレンタインデ-にチョコくれるって。」と付け加えました。
今年も、身内からの義理義理チョコしか息子の口には入らないのかと思っていたため、びっくり。
世の中、ほんと、蓼食う虫も好き好きと言われるが、まさに実感した瞬間でした。
よかったねー、K。きみの未来は明るいよ!
(40代・女性)
● 俺は今年1月2日に成人式を迎えるため雪深い故郷に帰った。無事、式をすましその後同窓会に出席した。酒が入り、学生時代の思い出話に花が咲く。だがよくよく同級生の話を聞いていると話の内容は漫画の話、給料で何を買ったとか言う話ばかりだ。しまいには同級生の悪口まででてきた…こいつら話が中学生のころとあんまり変わらない…老けている…話がつまらない。この村はネバーランドか?
俺は今回の帰郷にひとつの目的があった。同級生の裕太に会うことだ。俺は中学時代、人が近づきにくい堅物だった。そんな俺と対照的で裕太は自由人、人に好かれる人気者だった。だから俺は裕太が嫌いだった。仲もよくなかった。なぜ一生懸命がんばっている自分が認められないのかといつも憤りを感じていた。卒業も近くなったある日、俺が尊敬する先生に何気なく「お前は裕太より器が小さい」とポロリと言われた…空が落ちてきた。誰も俺を認めてくれないのかよ!中学生時代の苦い思い出だが、俺はいつも心のなかで裕太を意識し、少しでも大きい人間になろうとがんばってきた。
同窓会は進み、俺は裕太に声をかけた。決まり文句で「今仕事なにやっているの?」と聞く。
「春から代官山で美容師やるよ」との答え…かっこいい…さらに深く話をきくと…「今の彼女、何人目かわからないな」…もてているようだった。うーん、完敗だぁこれは…。
しょんぼりしている俺に裕太が「ノリオくんがあかぬけて楽しい奴になってよかったよ!俺は美容師になるからノリオくんは偉くなってくれ!東京もどったら飲もう(ちなみに俺の名前はヒロノリでノリオは兄の名前だ。兄が英雄的卒業生なのでそう呼ばれていた)」と言ってきた。中学のとき先生も同級生も認めてくれなかった俺を認めてくれたのは俺が一番嫌っていた裕太だった。このとき、俺のなかで裕太に対する憤りがなくなり、俺たちが今を生きる一人の大人と大人に思えた。俺たちは明らかに違う道の上にいる。けれども互いに認めあえる敵なのかもしれない。
俺は地元の人(村民)が好きではなかった。村という閉ざされた世界で夢を捨て自分の人生に見切りをつけ、若者ながら老人のように暮らしているように思えたからだ。しかし奴らを責めることはできない。今いる環境、あいつたちの考え…いろんな条件が重なってなるべくしてなったのである。自分で決めた選択なのだ。そして彼らは一人一人の大人なのだ。あいつらは外の世界を知らない。しかしあいつらは村のなかで生きることにも幸せを見いだしているのだ。
幸せは誰が決めるのだろうか。親でもない、友人でもない…自分なのだ。そう考えると、幸せにお金も、地位も、名誉も、国も、性別もあまり関係がない。重要なのは自分なのだ。世界がどんなに変わろうとこれだけは変わらぬ真実だと私はいま考えている。
そんなことで私は、先を行くライバルを追い抜くため毎日を力いっぱい生きていくのだ。
●あいにくの冷たい雨。にも関らずホールの入り口は長い列。ホールに入ると中は、何か皆とつながっているという心地良い雰囲気が感じられました。
まず下地勇さんの宮古島方言でのギターでの弾き語りでした。力強いメロディーの中に昨年とは違い、ちょっと憂いのような深みが感じられました。
下館直樹さんのギターは魔法使いのような演奏でアクロバット的で良く指が動くなーと、演奏に引き込まれながらも感心しました。時たま話が入りますが、何を言うのかな大丈夫かなと、ちょっと心配な感じで思わず応援していました。「そうだよなー、言いたいこと分るよなー」と。
そして演奏、そして歌。ずきっ、ズキッてどういう意味だろうな。でも何か楽しい。
最後は下地勇さん加わって4人での演奏があり、観客は総立ちで踊り、盛り上がり、昔はやったテープ投げしたりで気分は最高でした。
手作りのライブで味があり良かったです。 M50代男性)
●会場はいい感じ。
一つのホールの半分をステージにし、半分が階段状の客席。
ステージと階段状客席の間の空間には「座布団席!」。
下地氏が言ってました。
「アリーナ座布団席にようこそ。そこに座るの勇気いったでしょう(笑)」。
語る声はものすごく低音でちょっとハスキーと言ってよいかな。
唄う宮古島の方言はまるでフランス語かイタリア語か。あれは外国語だ!
おいでませ宮古島へ、とは言わなかったが、「宮古島に行ってみてください。何にもないけれど、無人島で360度海に囲まれ、一人でぼーっとしているのもいいもんです。宮古島の方言はまったくわからないでしょうけど、宮古島方言辞典も売ってるからそれで会話してください」だって(*^_^*)。
本人「歌が暗くてすみません(笑)」と言いながら、方言・標準語織り交ぜての歌唱。難しい音階(音程?)の歌もあって、それは流し聴きしました。
ただ、底に流れているリズムは心地よかったよ。
第2部の下館直樹氏のギターは凄かった。
響きがあったかくてねえ。ギターが語る、って感じ。
本人のキャラは、下地勇曰く「つかみどころのない人」。
「すきつき」「すきつき」の繰り返しから始まる「満月のなんたら(覚えてない)」という自作の歌や、幼いひな鳥が羽ばたく模様を唄った歌とか、ユニークでありました。
最後のセッションは早いリズムにものすごく早口の宮古島弁での歌で始まって、それを「待ってました」とばかりに立って踊り始める「おばさん軍団(5名だったか)」。
帰りのシャトルで一緒になったから聞いたところ「直樹くんの私設ファンクラブ」メンバーだとか。賑やかで楽しい人達だった。
ビートルズの「ゲットバック」に続き、セッションラストは「ワイドー」。
立ち上がり手拍子&身体でリズム。
紙テープはとびまくりそれはそれは楽しゅうございました。
(ついでに言うとあっしら二人、紙テープ投げるの失敗しました。
来年までにうまく投げる練習をしようと誓い合いました)
雨だけいただけなかったけれど、リッチな一日でございました。
(女性)
ある日、知人のAさんとメールでこんなやりとりをしました。
………
(Aさんからのメール)
さて、話は変わりますが、最近私は、平和は求めるものではなく使うものではないかと思うようになりました。つまり、平和は手段であり道具です。そうなると平和は戦争の対語ではなく暴力の対語の方がふさわしいと思います。平和主義というのは、問題を解決するのに暴力を使うのではなく平和を使うことではないでしょうか。
(大本からの返信)
まったくそのとおりだと思います。
マザーテレサが「すべての人を愛するのは難しい。
しかし、行いに愛を込めることはできる。」
と言ったのはそのことだと思います。
マザーテレサにしてなお、すべての人を同じようには、
愛することはできないのだなあとちょっとホッとしたし、
愛さなくてもよいから、そのときの行いを愛を持っておこなえば それでよいのだと知って勇気が湧きました。
(Aさんからのメール)
そう、マザーテレサほどの人でも、すべての人を同じように愛することはできないのですよね。むしろ、そのことを率直に認めることができることがすごい事かもしれません。
人は、生まれながらにして平和という道具も手にしているし、暴力という道具も手にしていると思います。平和も道具である以上、上手に使うには練習が必要なのだと思います。反対に使わないと、平和という道具を持っていることすら忘れてしまうのかもしれません。
一方で暴力という道具の方は、知らないうちに使い方を覚えてしまい、今では、非常に役に立つ(あるいは唯一の)道具のように錯覚してしまっています。
子どものうちから、平和を使うことと暴力を使わない選択をすることを学ばせるのが大事だと思います。また、大人になっても、自分が平和という道具を持っていることを思い出し、下手でも意識して平和を使うようにするのが大事だと思います。
きっと「聖人」とは平和の達人のことなのだと思います。(A)
先日、『今、子供達が危ない!』というテレビ番組を見ました。
不登校の子供を預かる施設や、引きこもりの子供を持つ家庭をケアする組織。あるいは、礼儀や社会節度に無感覚になって、暴力的になっていく子供達に対して、どのように対応していくかという事がテーマに問われていました。
私もこれは大きな問題だと常日ごろから考えていましたので、興味津々で見ていました。
実際に私は子供を養っている訳ではありませんから、家庭内における養育に対する切迫感はありませんが、この次世代に対する責任感を失っているわけではありません。だからこの問題に対して無関心ではいられません。
私は学校の教師ではありませんし、子供を育ててもいません。今は工場で電子部品を生産する作業員です。
ですけど私の働く姿を見て、妙に好奇心を寄せる人達が出てきました。
どうして池田さんは、あの歳であんなに活き活きしてるんだ??という事らしいです。
それで恋愛問題やら仕事上の問題やら、身体的な問題やら相談を受ける事があります。
で、私の口から言葉がスラスラ出てきますが、私の本心には『理想的な大人になろうよ!』という思いがありますから、言葉が出てくるみたいです。
そうした相談をしてくる人達の中には子供のいる人もいますし、接する機会もあると思います。そんな人達に対しても、次世代に対する責任感は見失わないで欲しいという思いがあります。そんな思いが今の私の活力を生み出し、生きる目標の一つになっています。
私が直接子供に接したのは、インドの貧しい家庭の子供を預かって養育する施設で働いていた2年8ヶ月の間でした。
2歳から13歳までの33人の、インドの子供達と暮らした日々は自分の生き方を問われる日々でした。子供は大人を見本にして学ぶという事をリアルに感じたからです。
特に一番身近にいる大人、両親ほど愛と知識を与えてくれる存在はなく、両親は生きる活力と希望を生み出す源であるとも言えると思います。とりわけ小さな子供にとっては。
そしてある程度、自分自身という存在を認識できたあとは、両親は生きる目標を見出すための、最初の目安になる存在であるとも言えるのではないでしょうか。
それを強く感じたから、子供のためになる大人としての生き方を学ぶというのが、私に与えられた2年8ヶ月という時間だったと思います。
その際、私が子供達に伝えたかったのは、「分かち合う事の大切さ」「助け合う事の大切さ」そして「忍耐心」でした。
「分かち合う」と言うのは、独占が争いを生み出すから。
「助け合う」のは、孤独が多くの弊害を生み出すから。
「忍耐心」は、学びと成長の受け皿を生み出すから。
これらは大人になっても必要なものだと思いましたから、子供のうちにそれを学んで欲しい。だから、自分がそれの生きた証になろうと、強く心に誓いました。
インドで子ども達と触れ合った体験を思い出すたび、次世代に対する責任ということが、浮かんできます。それはインドを離れて月日が経っても、少しも変わりません。それどころか前よりもいっそう強く、そのことを意識するようになってきました。そしてこの問題を感じている大人は私だけではないと思います。
それに対して自分はどうあるべきか。何を望むか。何をするべきか。
真剣に考え、勇気を持って取り組むのが、私達大人に与えられた課題であるように感じる今日この頃です。
(元NPO法人「レインボーホーム」(孤児の家)カルカッタ駐在員)